淡い日差し、近づく足音。
 伸ばされる手、速い鼓動、髪に降る吐息、見えない未来。

 ……お願い、その手を、離さないで。

第一話  『貧相な彼女』


 ドアの前で立ち止まり、インターフォンに手を伸ばす。自分の指を見ると、ブルブル震えているのが分かる。

 あたしは大きく息を吸い込んでから、ゆっくり吐き出した。十九年近く生きてきたのに、未だに初対面の人と会うのが苦手だ。心臓はいつもの倍くらいの速さで脈打つ。膝も勝手にガクガク揺れる。

 覚悟を決めてボタンを押した。その瞬間、玄関ドアがガチャリと開く。家の中でピンポーンと来客を知らせる音が細く聞こえる。開いてくるドアを避けようとあたしは一歩後ろに退いた。「アレッ?」という声が上から響く。

 玄関口に立つ人物は少し目を見開いてあたしを見た。一六〇センチのあたしから見ると振り仰がなければならないくらい背が高い。明るい茶色に染められた髪、英語のロゴがプリントされたグレイの長T。視界に入るその身体は、体脂肪率が一桁台だと確信出来るほど細い。

 黒のストレートジーンズをすんなり着こなし、まじまじとあたしに向かって見開かれた目はうっすら青味がかっている。通った鼻筋と軽く開けられた唇。挨拶の言葉も忘れるほど、完璧な容姿の男の子だった。

 あたしはインターフォンのボタンを押した時のままの指と手を下げるのも忘れて、硬直して彼を見返す。彼は驚きの表情から一瞬で無表情になり、サッと後ろを振り返る。

「サク兄! なんか貧相な女が来てる」

 ドアを開けたまま家の中に向かって彼が怒鳴る。あたしは自分の耳を疑った。今確か……ヒンソーって言われた気がするけど……。

 彼はもう一度こちらを向くと、あたしには一瞥もくれず脇を通り抜けようとした。緊張と彼の発言のせいでショック状態に陥ったあたしは、凍ったまま動けない。白い木製の玄関ドアはストッパーが利かないのか、ギーッと音を立てて元へ戻っていく。

「ちょっとシン! 待ちなさい、あんた晩御飯の当番でしょ?」

 ドアが閉まりきる前に中からハスキーな声が届いた。あたしの斜め後ろでシン≠ニ呼ばれた彼がギクリと足を止める。

「あー、うるせ。ねぇアンタ、あいつ煙に巻いといて」

 彼は内緒話でもするように低い声であたしにそう告げてから、再び歩き出した。あたしはすぐには硬直が解けず、彼が何を言っているのか飲み込めなかった。まだ腕を上げて人差し指を伸ばしたままでいると、ドアの向こうでカタカタッとサンダルを踏み鳴らす音が聞こえた。

 後ろの彼が慌てたように足を速めるのが分かる。そこでいきなり目の前のドアが開き、あたしの横を一瞬で赤と金色が通り過ぎた。

「逃げようったてそうはいかないわよ。夕飯のメニューは決まってるし材料も全部用意してあるのに、作ってなかったら食べられないじゃない」

「オレはこれからバイトなんだよ」

「じゃあ、なんで出かける前に作っておかなかったのよ。時間ならたっぷりあったでしょ」

「色々忙しいの。食事ならあのデブニートにやらせりゃいいじゃん」

「ふざけないで! 当番は当番。しっかり守ってもらうわよ。この家のルールなんだから」

「ねぇ、彼女待ってるよ。お客さんだって言っただろ」

 あたしは腕を上げた格好のまま、恐る恐る後ろを振り返った。緊張した首筋からパキッという音が響く。運動不足が悔やまれる間抜けな音だ。後ろを向くと、赤と金の塊が人の形に変化した。

 それは真っ赤なニットのワンピースを着た、金髪の女性だった。派手な化粧をしているけど、澄んだ茶色の瞳が印象的な息を飲むほどの美女。

 ──美女……。うん、顔は女性、着ている服も女性。でも身長は隣に立つ彼とほとんど同じ。それに何より声……声が……。

「あーあ、彼女ビビってんじゃん。夜の格好を陽の下にさらしちゃダメだよ。彼女の貧相な顔が恐怖に歪んでホラーになっちゃってるよ」

「……へぇ、誰か来てるって言ってたのホントだったんだ。アタシてっきりシンがピンポンダッシュでもしたのかと思ったワ」

「オレは小学生か」

 シンは不愉快そうに隣の美女に言うと、すぐに後ずさり始めた。あたしの方を向いていた美女は、目にも止まらぬ速さで向きをかえシンの腕をつかむ。シンはげんなりした表情になると、懇願するように美女に話しかけた。

「頼むよ、遅刻するとまずいんだ」

「罰金三千円と当番振替どっちがいい?」

「……振替」

「了解」

 美女がシンの腕を離すと同時に、彼は走り出した。高い垣根に挟まれた門まで十メートルほどある。美女が立ち去るシンの背中に声を掛けた。

「あんたカラコンなんかやめなさい。角膜がズタボロになるわよっ」

「今日のお相手は青い目が好きなマッダ〜ムなんだ。これでドンペリ確実だぜ」

「全くどうしようもないババ殺しね。車に気をつけなさいよ!」

「だからオレは小学生かって」

 そう言いながらも、シンは苦笑して美女に向けて手を上げ、門を出た。両手を腰に当てシンを見送ってから、ひとつため息をついて美女がこちらを向いた。肩に掛かる長さの、シャギーの入った金の髪の中で、耳から下がったピアスの宝石がキラリと光る。

 赤のワンピースに合わせてあるのか、宝石はルビーだった。実際本物のルビーなのかなんてあたしには分かるわけないけど、ルビーのような赤い色の石に見えた。

「お待たせしちゃって悪かったわね。ところでアナタ何? セールス? それとも宗教?」

 小首をかしげてあたしを見下ろすその顔は、ほんのり輝いて見えるほど美しい。ハスキーな声は色≠付けるためにワザと高めに出しているみたい。正面に立つとわかる広めの肩幅、見上げるほどの身長、張りのない腰、骨ばった手……。

 そう、このヒトはまぎれもなく……男だ!