第百四十五話

可畏は何もかも分かっている、と志門は悟った。羅威が──実の弟が導いた伝説の破壊への道も、それが残酷でありながら、成されなければならなかった事実だということも。

「……きみの心に傷を残してしまったことを、心から詫びなければならない。本当に、申し訳ないと思っている。それでも、羅威を恨まないでほしい。

羅威は悪から善へ変わる毘那夜迦を呼び起こす為に俺を追い詰めた。そして残虐な毘那夜迦に飲み込まれないように俺を守ったのも羅威だ。あの悪神に食い尽くされたら、例え未祥が止めても俺の自我は崩壊していただろう。

危険な賭けだった。でもあいつの強さと、無情にすら見える未来への決断がなければ、今の俺たちはなかったのも確かなんだ」

「オレは羅威さんを、恨んでなんかいません。あの時オレが純の本性を見抜いたとしても、あいつはどうにかして可畏さんと未祥ちゃんを引き離そうとしたでしょう。でも──でも……」

言葉に詰まった志門の肩を可畏がそっと抱き寄せた。志門の憤りも、むなしさも、そして何もかも終わった後の安堵すらも、可畏には手に取るようにわかる気がしたのだ。

「俺達の身に起こったことは、特殊なことのようで、実はそうでもないのかもしれない。人生には、たくさんの痛みがある。生きているだけで、思いもかけない運命にぶち当たることがあるんだ。

ヘコんで落ち込んで、死んでしまいたいと思うこともあるだろう。でもその運命に負けず、未来を変えていこうと思うなら、みっともないほど足掻かなくてはならない気がするんだ。

生半可なことでは、運命は変えられない。増してそれが長い間宿命とされてきた伝説の破壊なら、壊す方にも、壊される方にも、悲劇は避けて通れないものになると思うんだ」

「……可畏さん」

「俺と未祥は、祥那と父さんの祈りと、羅威の導きがあって新しい運命をつかむことが出来た。これから俺たちは、真実の愛情を持っている恋人たちをここに呼び寄せて、二人の愛が確かなものとなるように手助けしていきたいと思っている。

ここに来るのは、幸せだけしか知らない人間じゃない。幸せな人間には、神は必要ない。そして痛みを知らない神にも、ひとの苦しみは理解できないだろう。

苦悩の中にいて、それでも愛を持って耐えている人たちに、俺たちはよりそってあげたいんだ。ここはそういう人たちの、休息の場でもあるんだよ」

可畏は一度志門の肩をトン、と叩くと、手を離してペンションを見上げた。志門は可畏の横顔を見つめる。可畏の瞳は前とほとんど変わらない色に見えるが、以前より茶色みが強くなり、今の髪の色と近くなっている。

可畏のその瞳は、弟の遺した家を深い愛しさを込めて見上げている。可畏は優しく微笑んだまま、志門に顔を向けた。目には涙が光っていた。

「俺は……この家が好きだ。この場所もとても大切に思っている。ここに弟がいないことが、哀しい。羅威と一緒に、家族としてここにいたかった。でももう、取り返せない。俺はずっと後悔しながら、この場所で生きていくことに決めたんだよ」

志門は可畏の哀惜と懐古が入り混じる視線を、静かに受け止めた。そして刀利から戻って二ヶ月が経過したいまやっと、何もかもを受け入れることが出来た。

志門の目にも、涙が湧き上がってくる。志門は意思の力でその涙を止め、腕でグィッと目を拭いた。もう悲劇は乗り越えた。この穏やかな休日に哀しみの涙は似合わない。

「オレもここが好きです。いつかこの場所で、愛する人と過ごしたいです。その時は無条件で祝福してくださいね」

志門は満面の笑みで可畏を見た。可畏も同じく笑顔を返すと、志門の腕を握ったこぶしで軽く小突いた。それから感謝に満ちた目で志門を見つめる。

「きみには本当に助けられた。我がままを言わせてもらうなら、これからも俺たちを助けてほしい。らいらは女速疾鬼として育っていかなければならない。俺が羅衆ではなくなってしまったから、光はいずれあの子を羅衆筆頭にしようと考えているようだ。

俺と未祥はもう、刀利村に行くことはない。あの子の人生も、順風満帆とはいかないかもしれない。きみにもきみの人生があるのは分かっているが、時々でいい、らいらを気にかけてもらえると有難い」

可畏は志門に向かって頭を下げた。志門は「やめてください」と慌てて言う。

「頭を下げる必要なんてありません。オレはこれからもここに来たいし、らいらちゃんの成長も見守るつもりです。オレで役に立つことがあるなら、なんでも手伝いますよ」

志門が言うと、可畏は顔を上げて「ありがとう」と言った。可畏が志門に右手を差し出す。志門は頷き、微笑むと、その手をしっかり握った。

「志門、可畏さーん。そろそろ入ってきませんか? 楓さんが新作のデザートを味見してもらいたいって。それと茉菜さんが、源さんと朝さんを連れてもう少しでここに着くそうです」

裕生の声がして、二人は建物を見た。ペンションの裏側にある廊下の窓から顔を出して、裕生が手を振っている。裕生の横に未祥も並んでいた。こっちを見て、晴れやかな笑顔を浮かべている。

「よし、じゃあ行くか。どうやら今夜は米と酒の講義を長々と拝聴することになりそうだ。覚悟はいいかい?」

「またですか……。可畏さん、オレ、寝たふりするんで後は任せます」

「ひとりだけ逃げる気か? それじゃあ、こうしよう。酒のつまみを調達するからと言って、二人で街まで下りるんだ。二時間は稼げるぞ」

「賛成!」

可畏と志門は笑いながら歩き出した。愛おしい人々が集う家へと、足を進めていく。

そこは秘密の場所。誰もが知りうる場所ではない。
現実の世界から少しだけ離れた異界。その場所に建つ愛の館にいる人々は今、静かな幸せにつつまれていた。