第百四十話

「……羅威」

可畏はずっと自分と共にいて、残虐な毘那夜迦の侵略から逃れるために戦ってくれた羅威に思いを馳せた。羅威がいてくれなかったら、自分は毘那夜迦王へと権化することは出来なかっただろう。

歓喜天の化身として生まれ変わるためには、一度、大鬼王毘那夜迦を解放することが必然だった。でも可畏はひとに対して遠慮がちで、自分の感情を爆発させることが出来ない性格だ。

みんなを容赦なく傷つける毘那夜迦へ変わることを躊躇っていた可畏を、羅威が後押ししてくれた。そして毘那夜迦を呼び起こした後も、隙あらば可畏のすべてを乗っ取ろうとする貪欲な力に抵抗する手助けもしてくれたのか……。

その時、可畏は気付いた。もしかしたら羅威は、最初から知っていたのかもしれない。未祥と本物の愛を築くには、刀利の伝説から逃げ続けるのではなく、立ち向かい、破壊しなければならないことを──。

羅威は伝説を全部壊せと言った。もしも可畏が戟を持ち、十六になる前の未祥と口づけを交わし、多聞≠ノなったとしても、未祥が年を取らない限り一般の人々に混じって生きるのは難しい。

戟と比丘尼の関係を破壊しなければ、可畏と未祥が同じ存在≠ノなることは永遠にないのだ。カギは伝説を壊すことだった。そのすべてを見越して、羅威は自分に会いに来たのではないだろうか……。

可畏は涙を床に落としながら、弟の髪を拾っていった。一本も取りこぼすことのないように、丁寧に集めていく。未祥もベッドから降り、髪を集めるのを手伝った。その場にいた全員が、羅威の髪を拾い集めた。

可畏の手のひらに、羅威の髪の毛が全部集まった。楓が細い紐を見つけてきて、亡き夫の髪の毛を一つにまとめる。可畏は歓喜天の仏像と共に、羅威の髪を手の中にギュッと握った。弟と一緒に掴んだ愛の神。これで俺と未祥は伝説から解放され、ずっと一緒に生きていける。

可畏は涙に濡れた目で未祥を見た。パジャマの上着一枚しか身に着けていない未祥は、いつもより幼く見えるのに、同時にとてもセクシーだった。

未祥も涙がつたう顔で、可畏を見上げ微笑んだ。色の変わってしまった長い髪に可畏はそっと手を伸ばす。サラリとした、確かな感触。愛しい恋人は、まごうことなくここにいる。可畏は未祥を引き寄せ、抱きしめた。未祥も可畏の背中に腕を回す。他のメンバーは、静かに部屋を出て行った。

羅威の愛の館に、冬の朝の光りが柔らかく降りそそぐ。森の木々は人知れずその枝を伸ばし、息づく館を秘密のベールに包み隠した。




「光さーん!」

駅の階段から降りてきた裕生が、光に手を振った。大きなキャリーバッグを持って階段を降りた裕生は、少し息が上がっている。自分の車に寄りかかっていた光は、裕生に手を振りかえした。

裕生のあとから、志門が同じく大荷物を持ってついてきている。パンパンに膨れた馬鹿デカいスポーツバッグを右肩に引っかけ、それをあまり苦にしていない顔で颯爽と歩いて来る。

裕生と志門は急いで光の車まで行った。地方の駅のロータリーだが、意外に車がひしめいている。さっさと乗り込んで発車しないと、クラクションを鳴らされそうだ。光の車のトランクに荷物を積み込み、二人が後部座席に乗り込む。光がウインカーを出してアクセルを踏むと、志門はアシストグリップを握り締め、揺れに備えた。

「すまんな、地元まで迎えに行けなくて。今年の新酒も好評だから、酒蔵が結構忙しいんだ。道中荷物が重たかっただろう」

遠路はるばる電車を乗り継いできた志門と裕生に、光は申し訳なさそうに言う。二人は同時に首を横に振った。

「いっつも光さんと可畏さんに送り迎えしてもらって、逆に申し訳ないです。電車もたまには楽しいですよ。それにこの駅もエレベーターがつくみたいですね。中で工事の準備してましたよ」

志門が言うと、光が「やっとか」と言った。

「俺はほとんど車しか使わんからあまり不便は感じなかったが、電車を使う人はエレベーターがないと確かに大変だな。ここは刀利に一番近い地方都市だから、村の人間も駅を利用することが多い。便利になると助かるな」

「でも工事が終わるまでにはまだ掛かりそうです」

光の急ブレーキに耐えながら志門が言った。

「あー、早くエレベーター動いてほしい。荷物が重いのはしょうがないけど、長い階段は落っこちそうで怖いんだもん」

裕生が自分で自分の肩を揉みながら言うと、光が軽く笑う。

「それなら、着替えなんかはこっちに置いておけばいい。裕生はちょこちょこ週末にペンションまで来てるんだから、いちいち持って来るのは面倒だろう」

「そうなんですけどね。でもペンションもゴールデンウィークにお客さんの予約が入ってるでしょう? だから客室を独り占めするのも申し訳なくて……」

「予約といっても一組だけだろう? 客室は八室あって、未祥と可畏がいつも使ってる部屋が一つだな。それでたまに裕生と志門で一部屋ずつ使っても五室残る。それほど気にしなくても大丈夫そうだかな」

「うーん、でもこれからお客さんが増えたら、あたしの荷物が邪魔になると思うし……。それになんとなく、使ってる部屋に愛着が湧いちゃいそうで困るんです。だから毎回、違う部屋に泊まらせてもらってるんだ」

裕生の答えに、光がからかうように笑いながら言った。

「そうか。じゃあ、これからは志門と一部屋で寝るのはどうだ? そうすれば六室空くぞ」