第百三十八話

「殿方、もう振り返っていいわよ。可畏くん、手鏡を未祥ちゃんに渡してあげて」

茉菜に言われて、三人はベッドの方を向いた。可畏は未祥に近づく。未祥は不思議そうな顔で、髪の色が変わった可畏を見た。可畏は困惑と、それ以上に喜びにあふれた目で未祥を見返す。

可畏は何も言葉に出来ないまま、未祥に持っていた鏡を渡した。未祥は急いで覗き込む。鏡からこちらを見る自分の瞳は、髪と同じ灰色がかった薄茶色だった。以前の未祥の瞳は黒味の強いこげ茶色だから、ずいぶん見た目が違って見える。これでは別人のようだ。

訳が分からず、未祥はすがるように可畏を見た。可畏は愛しい未祥の視線を優しく受け止める。しかし可畏も、自分と未祥に何が起こったのかさっぱり分かっていなかった。

「──なにコレ……?」

止まらない笑いに、ベッドの上に伏せていた裕生が、急に不思議そうな声を上げた。起き上がった未祥の枕の陰に、白っぽいかたまりが落ちている。ベッドカバーの真っ白な色より、少しだけ黄味が強い。裕生は象牙色をした奇妙な形のものを、指でつまんだ。みんなが裕生の手元を覗き込む。

「……象?」

つぶやいてから裕生は、他の人にも見えるように手を上げてそれを掲げる。一同が、裕生が指でつまんだものに顔を近づけた。高さ五センチ、幅三センチ程度の大きさ。

一見、いびつな形をしたものが、何をかたどっているのか可畏はすぐに見て取れなかった。白い石のようなものは鈍く艶めいて、磨きこまれた彫り物のようだ。ジッと観察しているうちに、それが二頭の象だと気付いた。

首から上だけが象で、身体は人間だ。なにか布のようなものを身体にまとっている。向かい合い、お互いを抱き合う姿勢を取っていた。

「歓喜天(かんぎてん)か!」

突然、叫ぶように光が言った。女性陣は怪訝な顔で光を見る。らいらが「あぶ」と声を出した。可畏は何かの文献で読んだ記憶を、ふと思い出した。象と歓喜天という言葉に覚えがある。茉菜が首をかしげて光に訊いた。

「それってなに?」

「ガネーシャだよ! 象の姿をした神様だ」

「え? 象のガネーシャって……あの関西弁の?」

茉菜があごに片手を当てて、何かを思い出した顔で言った。「あたしもテレビで見たことある!」と裕生が叫ぶ。光は少し困った顔で茉菜を見て言った。

「関西弁は創作だろう。でも基本は同じ歓喜天だと思うよ。俺も詳しくは覚えてないが、村の伝説から仏や天部について調べていた時、読んだことがあるんだ。かなりの力を持つ愛の神であり、祈り方を間違わなければ、あらゆる願いをきいてくれるスゴイ神様だと書いてあった気がする」

「俺も思い出した」

可畏が色の変化した髪をかき上げながら言った。

「歓喜天は仏教の神のなかでも、変わった遍歴を持つと書いてあった。象頭人身の神で、一体だけの独尊像で現されるものと、男女二神が抱き合う双身像があるらしい。強い力がある神で、人々のいかなる願いも聞き入れてくれるが、祈りをサボったり間違ったりすると、手ひどい罰を下すとも読んだ覚えがある。

歓喜天になる前は、暴君として民を虐げていたとも読んだ。それを観音様が止めてから仏教に帰依して、人々を守る神になったという話じゃなかったかな」

「あのう、それって聖天さんのことですよね?」

志門が遠慮がちに声を上げた。みんなが同時に志門を見る。志門はドギマギしたのか、ちょっと小さくなって説明を始めた。

「オレの伯父さんが宮司を務めている神社の近くに、象の神様を祀ってあるお寺があるんです。オレは小学生の頃夏休みとかに、父の実家によく遊びに行きました。その時その寺に何度か行ったことがあります。

伯父はそこの住職さんと、親友というか悪友というか、飲み友達みたいな感じで、そのお坊さんから聖天さんに関する逸話をよく聞かされました。それがその……」

志門はどういう理由か急に頬を赤く染めた。みんなは真剣な顔で志門の話の続きを待つ。志門は少しためらったあと、思い切って話を始めた。

「色々な説があるそうですが、オレが住職さんに聴いた話はこうです。聖天さんは元々、ものすごく悪辣で容赦のない魔物だったそうです。その行いが飛んでもなく恐ろしいので、民のみんなでやっつけることが決まりました。

でもそれに怒った魔物は大鬼王毘那夜迦となり、更に民を苦しめたといいます。この毘那夜迦は、鬼神とか、鬼王とか、悪神と呼ばれるくらい酷い悪事を働いたそうです。民はこんなコワイ魔物にとても敵わないと思い、十一面観音に助けを求めました。

観音様は人々の願いを聞き入れ、彼の元へ行きました。その時十一面観音は、象の頭を持ち身体は人の形をした毘那夜迦と同じ姿の、女身に化けたそうです。毘那夜迦は自分とそっくりな女性となった観音様を、ひと目見て気に入りました。

それであの……、観音様に向かって、だ……抱かせてくれればお前のいう事をきくと言ったんです。観音様は仏法への信仰を持つなら、願いを叶えましょうと言って、毘那夜迦と夫婦になりました。毘那夜迦は観音様と……、えっと、まじわっ……」

志門は息を整える。

「その……ひとつになった時、ものすごい歓喜を得たそうです。そして仏教に帰依しました。それから毘那夜迦は大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)となったといわれています。人々の願いをあまねく聞きいれてくれる、慈悲深い神様です。住職さんは聖天さん、と呼んでますけど」