第百三十六話

あのまま死ねたら良かったのに……と可畏は思った。どのみち、深夜十二時を過ぎたらここを出るつもりだった。

この世界で、未祥がいない日々を過ごすつもりは、可畏にはなかった。唯一の気がかりはらいらのことだ。弟に託された実の姪とその母親。二人の為に、可畏は遺言を残しておいた。

羅威のスーツを探したあと、羅威の部屋で紙とペンを拝借した。覚羅可畏の財産はすべて姪であるらいらに相続させる旨を書き記したのだ。遺言には署名と捺印が必要だ。羅威の部屋にある机の引き出しをじっくり確認したら、「柴山」の他にも「覚羅」の印鑑がちゃんと保管されていた。

可畏は遺言書に署名をし、捺印した。本当は公正証書遺言のような法的効力の強いものにしたかったが、そこまでやる時間がない。この遺言書が有効でありますように、と願い、羅威の机の一番上の引き出しに、すぐわかるように仕舞った。

朝が来る前に山深くで、未祥の後を追おうと思っていた。それが朝陽を見ることになってしまうとは──。

可畏は恐る恐る、隣に顔を向けた。らいらよりもっと小さな乳児が、そこにいるはずだった。最初に見えたのは、髪の毛だった。長く豊かな髪が、枕に広がっている。

可畏は飛び起きた。朝陽が地平線から顔を出したのか、部屋の中がさっきより明るくなった。その髪の色は、未祥のものではない。可畏は隣に眠るひとを、目を皿のようにして見続けた。




ドアが開いた途端、光は目を開けた。無理な姿勢で寝ていたせいか首が痛かったが、すぐに上体を起こしてドアに目をやる。志門は既に、裕生の頭の下から腕を抜いて半身を起していた。

入ってきた人物を見て、光はパカッと口を開けた。志門も目をまんまるにして、何度かまばたきする。白いシャツとスーツのズボンだけ着た男は、慌てた様子で光に話しかけた。

「光! 未祥……未祥の髪が変だ」

光は口を閉じ、ごくりと唾を飲んだ。可畏の声。顔も可畏のものだ。光はまじまじと可畏を見る。朝陽は完全に昇っているようで、部屋の中は明るい。カーテンは閉まっているが、それでも見間違えるほど暗くなかった。

光はゴリゴリと頭を掻いた。可畏は緊張した顔で光を見ている。光は息を吸い込み、ため息交じりに言った。

「いや……可畏、お前の髪も変だ」

可畏は何を言われたのか分からなかったようで、一瞬目を泳がせた。それから髪に手をやる。光の横で寝ていた茉菜が起きた。志門の横の裕生も身じろぎする。二人はほぼ同時に起き上がり、可畏を見た。茉菜は「うわっ」と叫び、裕生は「だれ!?」と言う。楓も目覚めて、ポカンとした顔で可畏を眺めた。

「え? ──俺……俺の髪?」

可畏は自分の前髪を引っ張って見ようとした。楓が立ち上がり、バスルームへ行く。志門も立って、一番近い窓のカーテンを開けた。朝陽が差し込む中、可畏の髪の色がよりハッキリと見えるようになった。

バスルームから手鏡を取ってきた楓が、可畏に渡す。可畏はまぶしそうに目を細め、鏡の中の自分を見た。顔立ちは自分のものだが、髪の色と眉の色が前とかなり違った。一同が可畏の周りに集まる。茉菜が可畏の髪に顔を寄せ、目を凝らしながら言った。

「なんか……脱色してから染めたみたいね。白と灰色と、茶色が混ざったみたいな不思議な色。なんていうんだっけ? ほら、アッシュ……ええと、あの……」

「ホワイティアッシュ?」

「そうそれ! 雑誌で見たの。人気のある髪色だけど、美容師さんでも色を出すのが難しいって」

茉菜と裕生の会話をうわの空で聞きながら、可畏は鏡に見入っていた。この色は──同じ色だ。

「それで未祥がなんだって?」

今度は光が緊張した面持ちで可畏の腕をつかんで訊いた。可畏は鏡を降ろして光を見た。

「未祥も、俺と同じなんだ。髪の色が変わってる」

「それは……赤ん坊の未祥が、ということか?」

可畏は激しく首を横に振った。

「違う。姿は前と同じだ。ただ髪が……」

裕生がいきなり、ドアに向かってダッシュした。志門も舌を巻くほどの物凄いスタートだった。志門が裕生のあとを追いかける。可畏もそれに続き、光と茉菜も一緒に部屋を出て二階に向かった。




爽やかな風が吹いている。

未祥は青空を見上げていた。足元には青々とした草が生い茂っている。今は一月のはずなのにおかしい。この風はまるで初夏のような匂いがする……。

遠くの方で、誰かが笑い声を上げた。未祥は声の方を見た。草原の遥か彼方に、キラキラ輝く場所がある。そこは水場のようで、たくさんの女の子たちが水をかけ合って遊んでいる。みんな同じように長い黒髪で、白地のワンピースを着ていた。

池か湖のような水たまりに足をつけ、水をすくって、相手に向けてパッと飛ばす。それが細かい飛沫になり、太陽の光を反射してダイヤモンドのようにきらめいている。キャッ、キャッ、とはしゃぐたくさんの声。

未祥はまぶしそうにその光景を見ていた。ひとりの少女が、水から出て岸に上がった。こちらを目指して、草原を歩いてくる。未祥はやっと、ここが現実の世界ではないと気付いた。

ああそうか、あたしは死んだんだ。だからこんな綺麗な風景が見られるんだな……。

甘く爽やかな風も、なびく下草も、とても好もしいのに全く現実感がない。虫が一匹も飛んでいないし、鳥の声も聞こえない。ただ、ただ、美しく安全な世界だった。

近づいてくる少女の顔が、段々ハッキリ見えてきた。見覚えのある顔──。当たり前だ。自分と全く同じなのだから。

少女は未祥の一メートル手前で足を止め、未祥を見てニコリと笑った。未祥は何も言えず、その少女を見返した。