第百三十四話

楓は何も言わず、うなずいた。未祥はらいらのほっぺたにそっと指を付けた。らいらは深い寝息を立てて、無邪気な顔で眠っている。

「らいらちゃん、可畏をお願い。……お願いね……」

未祥は小さな声で、すがる様に囁いた。それが何を意味するのか、他の者には分かっていた。光はグッと歯を食いしばると、ことさら明るい声で言った。

「さぁ、初夜だぞ。これからは二人の時間だ。可畏、花嫁を連れて行け」

今まで静かに未祥を見守っていた可畏は、光に言われてうなずいた。未祥に近づき、腰をかがめて両腕に抱きあげる。可畏は一歩下がって一同を見渡すと、「みんなありがとう」と言って、軽く頭を下げた。

「可畏」

ドアの方へ向かおうとした可畏に、光が声を掛けた。可畏が足を止める。

「……明日、会おう。俺は待ってる。待ってるからな」

悲痛な面持ちで、光は可畏に伝えた。可畏は光を見てから、ほんのひととき、目を逸らす。そしてまた光を見返し、かすかに微笑んだ。つかみどころのない、消え入りそうな笑顔だった。

可畏は無言のまま後ろを向いた。未祥のドレスの裾が、床を滑って軽い音を立てる。両手の塞がった可畏のかわりに未祥がドアを開け、可畏は前に進んだ。

ドアを閉める前、二人は部屋の中を振りかえり、見返す人々に向かって小さく笑みを浮かべた。その後、ドアは静かに閉まった。階段へと向かう可畏の足音が遠ざかっていく。

「未祥……!」とつぶやくと、裕生は床に座り込んだ。膝を抱え込み、肩を震わせている。志門は裕生の横に座ると、腕を回して抱き寄せた。

「あたしがもっと早く行けば……あたしが……っ」

顔を伏せた裕生のくぐもった声が聞こえた。志門は目を閉じ、更に強く裕生を抱いた。こうしておけば良かった≠ニ思う後悔の気持ちは、痛いほど分かる。

「お前は頑張ったよ。……すげぇ、頑張った」

志門が言うと、裕生は下を向いたまま志門に寄りかかった。裕生のぬくもりが伝わってきて、志門は救われた気がした。床暖房はついていても、体の芯まで冷え切りそうな気がしていたからだ。こんな時に寄り添える相手がいるのは、有難いことだった。

光は閉まったドアをいつまでも立ってみていた。隣にいる茉菜の肩を抱き寄せ、祈るようにドアを注視する。明日俺は、ベッドに残された乳児だけを見ることになるのだろうか。可畏は未祥が再生したと同時に、遠くへ行ってしまうかもしれない。そしてどこかで、未祥を追って人生に終止符を打つかもしれない……。

光は茉菜を両腕で抱きしめた。恐ろしい予感で自然に身体が震える。茉菜は光の体に腕を回し、心優しい婚約者と力いっぱい抱きしめあった。

楓は眠るらいらのひたいに、自分の頬をそっと乗せた。スゥスゥという安らかな寝息が聞こえ、甘いお乳の香りが鼻をくすぐる。その小ささと温かさに、楓は愛おしさがこみ上げる。

羅威くん、らいらをあたしに授けてくれてありがとう。楓は心の中で、羅威に話しかけた。この建物の中にいると、羅威に抱きしめられているような気がする。楓は羅威の気配を全身で感じながら、お願いした。

羅威くん、お兄さんを守って。可畏くんを、どうか守ってあげて──。




可畏が未祥を連れて入った二階の部屋は、クィーンサイズのベッドが設置されていた。小さな石油ストーブが置いてあり、部屋の中は暖かかった。楓がどこかから、持ち運べるストーブを見つけてきてくれたようだ。

可畏は未祥をベッドの上に降ろすと、ストーブを消した。換気用に細く開けてある窓も閉める。可畏が後ろを振り向くと、未祥が立ち上がっていた。可畏は未祥の前に立ち、白い顔を両手で包む。

「とっても綺麗だよ。俺の花嫁さん」

言うと可畏は未祥にくちづけした。狂おしいほど熱く、甘く、哀しいキス。未祥は背伸びをして、可畏の首に両手を回した。可畏は未祥を抱き寄せ、唇を重ねたまま髪飾りを取る。結い上げてある髪もほどき、背中に手を這わせた。

ドレスのファスナーを探し当て、一気に下にさげる。可畏は唇を未祥の首筋から鎖骨へと移動した。ドレスの背中を両手で開くと、ストンとドレスが未祥の足元に落ちて広がる。目の前に露わになった乳房に舌を這わせながら、未祥の前にひざまずく。可畏の舌が未祥のヘソを探ると、未祥がくすぐったそうに笑った。

ほっそりした腰に手を当て、ショーツの両端を指でつかむ。可畏の手が、未祥の下着を下へとずらしていく。可畏は立ち上がった。目の前に、豊かな髪を肩に降ろした未祥が、生まれたままの姿で立っている。未祥は可畏を見上げ、微笑みを向けた。月明かりだけの淡い暗闇の中で見る未祥は、まさしく月に還ろうとしている天女のようだった。

可畏はネクタイをむしり取り、スーツを手早く脱いだ。お互い一糸まとわぬ姿になった二人は、その場で強く抱き合う。可畏は全身を震わせた。この抱擁もあと一時間ほどだと思うと、あまりの苦痛で脳の回線が切れそうになる。

未祥は可畏の広い背中を手の平で撫でた。もう少しで自分という存在が消える事実は恐ろしかったが、それ以上に可畏の嘆きが痛ましかった。

「……生きて」

可畏の体が、ビクッと揺れた。未祥は手を止めず、可畏の背中をさすり続ける。

「生きて、可畏。そしてらいらちゃんを守って」