第百二十九話

祈る未祥を見守る人々の足元に、白いモヤが漂ってきた。

どこから流れて来たのか分からないモヤは、広場に倒れる人々を覆い尽くすように広がっていく。モヤはどんどん白さを増し、深い霧状になっていった。白い霧は見る見るうちに上へと湧き上がり、立っている者の腰から胸、首元へと高さを増す。

背の高い光からは、他の者たちがあっという間に見えなくなった。そして自分も、頭の上まで霧に埋もれてしまう。光は最初焦りを感じたが、その霧の中の暖かさに力が抜けた。

春の早咲きの花の様に、甘い香りが鼻腔をくすぐる。視界は自分の鼻先すら見えない状態だが、光は今、圧倒的な安堵感に包まれていた。

霧は現れた時と逆に、頭上から徐々に薄れていった。緩やかに漂いながら、どこへともなく流れていく。暖かな空気と甘い香りが消えていき、かわりに冬の夜の冷たさが舞い戻ってきた。

未祥はゆっくり、目を開けた。地面には細い霧の名残が残り、そこには可畏に倒された鬼と村人たちが何十人も横たわっていた。彼等が突然、そろって目を開けた。それぞれが恐る恐る手足を動かし、上半身を起こす。倒れていた者は、自分が怪我をした場所を確認した。からだ中どこにも、血も、痛みもなかった。

おお、という歓声が上がった。起き上がった者たちが、膝をついて未祥を見る。怪我をしなかった鬼たちも、多聞の命令≠ェ頭から消えているのが分かり、安堵と共に膝を折った。誰からともなく、未祥に向かって手を合わせる。

「比丘尼様……」とつぶやく声が、広場にさざめき始めた。悪神に叩き落とされたカラスが、突然羽ばたいて空に飛んだ。完全に動かなくなった数羽を残して、暗い夜空へ向かって消えて行った。

未祥はホッとしてほほ笑んだ。その微笑は、慈悲深い菩薩のようだった。可畏が立ち上がり、未祥の肩を抱く。未祥は可畏を見上げ、二人は安堵の笑みを交わした。

志門は裕生と共に、寄り添う未祥と可畏を見守っていた。志門と裕生が癒しの霧に包まれたのは、玄関の石段を下りてすぐの場所だった。志門は暖かい霧が体の奥まで浸透したような気がしていた。

張りつめて疲れた神経が、ぐっすり眠った後の様にスッと楽になった。なんとなく、自分の中にいる大きなカラスが思い切り羽を伸ばしてリラックスした感じがした。

ふと思いつき、志門は後ろを振り返った。老人の背中に担がれた純は、目を閉じていたものの、顔色は正常に戻っていた。他の怪我人と違い、純の意識は戻っていなかった。死の淵から急激によみがえり、安心してグッスリ眠っているように見える。それを確認した志門は、石段を駆け上がった。驚いた裕生が「どこ行くの? 危ないよ!」と声を掛けた。

志門は玄関に入り、すぐ近くの部屋を見た。そこには先程と変わらず、二人の遺体が横たわっている。腹に広がった血もそのままで、未祥の祈りが起こした霧で治癒された様子はなかった。あの霧の効力は、息のある者にだけしか有効ではないのか……と志門は思う。それとも、悪神により傷つけられた者にだけ効き目があるのか──。

そもそも、一度死んでしまった人間を生き返らせるのは、神仏の力をもってしても難しいことなのかもしれない。カラスたちもこと切れてしまったものは蘇らなかった。志門はもう一度遺体に手を合わせると、振り返って玄関にダッシュした。

漂う煙のせいで目が痛い。バキッと何かが割れる音が遠くで聞こえる。冬の乾燥も手伝って、火はあっいう間に広がっているらしい。志門は何かに追い立てられるように、玄関から飛び出した。

「志門! どうしたの? 何かあった?」

外へ出るなり、玄関のすぐ前で待っていた裕生が訊いてくる。志門は心配のあまり青白い顔をした裕生に申し訳ない思いで、腕をつかんで説明した。

「中の二人の遺体を確認してきたんだ。もしかしたら起きてくるんじゃないかと思って。でも駄目だった。亡くなったままだったよ」

言ってから志門は裕生の腕を引いて建物から遠ざかろうと歩き出した。純を担いで横に立つ光の祖父にも、「火の勢いがすごい。逃げましょう」と声を掛ける。老人は強張った顔で志門を見返す。そして小さく、うなずいた。

ドォン……という音が響いたのはその時だ。重い音は上の方から降ってきた。志門は裕生の手を握り、広場に向かって走り出す。未祥の肩を抱いた可畏は後ろを振り仰ぎ、城の屋根が陥没しているのを見た。そこから炎が勢いよく噴き出している。

「逃げろ! 瓦が降ってくるぞ。遠くへ走れっ」

可畏が門を指さし、みんなに向かって叫んだ。広場に集う者たちは、可畏への恐怖をぬぐい切れず、揃って怯えた顔をした。光は怪我人が起き上がったことで呆然としていたが、可畏の声で我に返った。

「門から逃げろ! 役場へ向かうんだ。でも焦るな。並んで行け。前にいる人を押さないで走れ」

光が大声で指示を出すと、村人たちは慌てて立ち上がった。パチパチと木造の建物が燃える音が大きくなる。人々は一斉に門に向けて走り出した。

「押すなよ! ムリに前に出るな。順番に行け」

人の流れの脇に立ってみんなを誘導をしながら、光は大声で注意し続けた。隣には茉菜が来て、手を振って誘導を手伝う。裕生と志門も光の向かい側で、「焦らなくて大丈夫です。落ち着いて進んでください!」と呼びかける。

可畏は裸足の未祥を抱きあげ、集団のしんがりについて、残っている者がいないか見まわしながら進んだ。拓己と正高は、火事の恐怖で腰が抜けた村人を二人で支えながら、可畏の前方を歩いている。

カンカンカン……と警鐘が鳴り始めた。村に災害を知らせる鐘の音は、山にこだまして響き渡る。みんなを誘導していた光が、焦った様子で茉菜に顔を寄せた。

「すまん、朝さんに電話してくれ!」