第百二十七話

険しかった悪神の目から猛々しさがなくなる。悪神は一心不乱に未祥を見つめた。未祥が肩から羽織っていたあでやかな牡丹の振袖は、裕生の手を放した時、するりと脱げて下に落ちた。

今、未祥は長襦袢だけの姿だ。裕生が意識のない未祥に四苦八苦して着せた薄桃色の着物は、襟が緩くなり胸元が大きくはだけている状態だった。

未祥の右耳の宝珠が、突如光り出す。朝起きた時に自分で張った結界がなくなり、キラキラと輝き出した。その宝珠が、涙のしずくの様にホロリと耳から落ちた。

一度肩に落ちた宝珠は、水銀のようにひと塊の液体となった。鎖骨を転がり、白い両胸の隆起の間に落ちる。未祥の胸の中心で、宝珠はとまった。右耳では玉ねぎの形をしていた宝珠は、胸の間で小さな象の形になった。

耳の大きな、横向きの象。可畏の胸のほくろと同じ形をしたそれは、未祥の胸の真ん中に張り付き、白く輝きながら動かなくなった。

未祥の真珠色に艶めく肌と、豊かな胸の谷間がかがり火に照らし出される。未祥の胸に落ちた象の形の宝珠も、更に眩しく煌めいた。

目の前にいる女の潤んだ大きな目、バラの花びら型の唇、細くなよやかな躰……、何もかもすべてが悪神の目に好もしく映った。

美しい! なんと清らかで、なんとなまめかしい。この女が欲しい。この麗しい乙女のいう事なら、俺はどんな願いでもきく。まさに真実の淑女。己の悪意すらもすべて浄化する高潔な光輝。この天女が手に入るなら、この世を恐怖で支配する欲望を手放しても構わない。

今度は悪神の恋情と、可畏が持つ未祥への愛情が甘い疼きとなってシンクロする。可畏の中で暴れる強力な悪意が、力を失いとろりと溶けた。自らの心の奥へ隠れていた可畏の精神が、徐々に表面に現れ、自分の身体を取り戻していく。

可畏は悪神の放つ冷たい熱を、胸の中心に強く押し戻した。ずっと共にいてくれた羅威が、解き放った悪神を象の印の中へと戻す手伝いをしてくれる。悪神の気配が胸の真ん中へ納まってくると、羅威の気配も消えていった。

可畏の心と体が完全に自分のものとなった時、体中から力が抜けた。ガクリと未祥の前に膝をつく。いくつもの傷口から血を滲ませた顔で、可畏は未祥を見上げた。未祥は涙に潤んだ目を細め、儚い微笑みを浮かべて可畏を見返す。

可畏には分かった。未祥は純に、手籠めにされてしまった、と。可畏の目から涙が零れ落ちる。喪失感に満ちた可畏の姿を、未祥は胸が詰まる思いで見つめた。未祥は可畏に近寄り、ひざまずく可畏の頭を両手で抱いた。可畏も未祥の身体を抱きしめ、お腹に顔を押し付ける。

「ぅあ、あぁ……み……ひろ。未祥……」

可畏の声は涙でかすれていた。未祥は可畏の濃い青灰色の髪を宥めるように撫でる。その目からも涙が一筋流れ、絶望に打ちひしがれる可畏の髪に音もなく吸い込まれた。

志門は自分の身体に意識を戻した。純の心臓はどうにか動きを止めないでいる。今のうちに医者か救急車を呼べば、一命を取り留めることは出来そうだった。

志門は冷たい石床から身を起こした。その場にいる者たちは、抱き合う未祥と可畏を言葉もなく見つめている。志門も二人をそっとしておきたかったが、怪我人が大勢いる以上、それを放置することは出来なかった。志門は光のそばに寄り、この村に外科医はいるかどうか聞こうと思った。

「火事よ!」と叫ぶ声が聞こえたのはその時だ。志門は光とほぼ同時に広場の方を見た。玄関の前に広がる玉砂利が敷き詰められた場所で、茉菜が怪我をした鬼の横に膝をつき、城の上方を指さしている。

「燃えてるっ。城が燃えてるの!」

茉菜が更に声を張り上げた。茉菜の後ろでは、朝さんが一升瓶を抱え、口を開けて城を見上げている。志門と光は石段を駆け下り、茉菜のいる方へ走った。

光が数日ぶりに見る婚約者の茉菜の顔は蒼白だった。光は茉菜に手を差し伸べ、引っ張って立たせると、強く肩を抱いた。そして後ろを振り返る。志門は朝さんと目を合わせてから軽く頷き、城を見るために後ろを向いた。

まず志門は、かがり火に照らされてぬっとそびえ立つ城と、自分の方に走ってくる裕生を確認した。見上げた多聞家の三階の奥の方から、黒い煙が上がっている。まだ炎の色は見えないが、モクモクと湧き上がるどす黒い煙は、中がかなり燃えていると容易に想像させられる。

煙が上がる場所を見て、光はふと、寝所の行灯が倒れたことを思い出した。あの時ロウソクの火は消えたと思っていたが、本当は消えずにくすぶっていただけの可能性が高い。

「消防車を呼ぼう。ついでに救急車も必要だな。街から来るまでに二十分は掛かるだろうから、沼田のおっさんにも連絡を取ってくれ。あのおっさんは内科専門医だが、包帯くらいは巻けるだろう。志門、裕生」

光は横に立つ高校生に声を掛けた。二人は緊張した面持ちで光を見返す。

「屋敷の中に人が残っているかもしれないから、逃げるように伝えてくれ。多聞家の二階より上に普通の村人は入れないから、残っているとしたら一階の台所辺りだ。中がすでに煙だらけだったら、入らなくていい。玄関から怒鳴れ。入っても三十秒で出てこい。伝えたら、逃げる。分かったな?」

二人は頷いた途端、玄関に走り出した。光は茉菜を振り返った。

「消防団の連中にも収集をかけなきゃならんが、どうやらここに倒れている奴が団員の大半だな。怪我人は城から遠ざけないと危ない。いつ燃えた屋根が落ちて飛んでくるとも限らんしな。それにしてもこの人数……。一体どこに寝かせりゃいいんだ?」

光は血まみれで砂利の上に倒れているたくさんの鬼たちを眺め、途方に暮れた調子で言った。