第百二十六話

可畏の周りのカラスたちは、次第に数を減らしていた。

地面に叩き落とされてしまったカラスがこんもりと黒い山になり始めている。間に合うだろうか……と志門は思った。その時、可畏にたかるカラスたちが、一斉に飛び立った。

彼らはまるで志門の意図を汲み取ったかのように、命令の光り目がけて急進する。黒い弾丸は鬼に届く前の光りを、空中で破壊していった。役目を終えたカラスは、また可畏のところに戻ろうと急旋回する。しかし、悪神はこの機に乗じた。カラスたちが飛び立った隙を逃しはしない。

黒い鳥が散開してスラリとした姿が見えたと思いきや、玄関を目指しそれが走り出した。志門も急遽、自分の身体に戻った。玄関前で志門が顔を上げた時、可畏はすでに石段の下に来ていた。

可畏の顔はカラスに攻撃されたせいで、ところどころが切れていた。傷口から血をにじませ、無表情のまま前を見る顔は、身の毛がよだつほど恐ろしく、そして美しかった。

未祥は可畏の方へ行こうと足を出した。でも薬のせいで激しいめまいが起こる。裕生が支えたが、よろけて石段の上で膝を打った。激痛が更にめまいを酷くする。未祥はしばし、動けなくなった。

可畏の眼は一点を見つめていた。まるで今まで本当の目的を忘れていて、やっと思い出したかのような眼差し。乗っ取られまいと決死の抵抗をする可畏の、恋人を奪われた心の痛みと、悪神の欲望がシンクロする。可畏と悪神が見つめるのは一人だ。

憎むべき敵。村の諸悪の根源。多聞家の血を引く──井田川純の顔を。

可畏は音もなく石段を上がった。そのまま吸い寄せられるように純の前に行く。純を両脇から捕まえていた拓己と正高が、恐怖のあまり手を離した。後方にいた光も、可畏の冷酷な波動に飲まれ、動くことが出来なかった。

やめろ、殺すな、と言いたいのに、可畏の顔をした可畏でないもの≠ノ対して、なんの言葉も口から出てこない。

「ヒィイ……いぃいイイィ────ッ」

悪神に左肩を掴まれた純が、喉から叫び声をもらした。さしもの純もこの場において、鬼に命令することを思いつかない。恐ろしさのあまり目が飛び出し、食いしばった歯をむき出しにして叫ぶだけだ。純のズボンの真ん中が濡れて色を変えた。

可畏が右手で握って拳をつくり、腕を曲げて後ろに引く。志門は咄嗟に体から抜けた。八咫烏よ、オレに力を! と祈りながら、純の心臓を目指す。

ドゴッというおぞましい音がその場に響いた。音と共に、腹を殴られた純が後ろに飛んだ。純の後ろにいた光が、飛んできた身体をギリギリでよける。光の着物の袖をかすった純の体が玄関の引き戸にぶち当たり、はめ込みのガラスがバンッと割れた。

ゲボ、ともゴボ、ともいうような、痛々しい音が聞こえ、純が大量の血を口から吐いた。格子の入った引き戸に叩きつけられた純の身体が、ズルズルと下に降りていく。純の心臓が、ビク、ビク、と奇妙な動きをした。心臓をカバーした志門は、異常な拍動の感覚を直に味わう。強いショックを受けて止まろうとする心臓。

だめだ、だめだ、だめだ!

志門は必死で心臓を守った。可畏に人殺しはさせない。絶対にさせない。羅威のペンションで深夜、月明かりに照らされた時の可畏の美しい姿が目に浮かぶ。あんなにも綺麗な心と体を持つ人が、怒りに駆られ、悪神に支配され、犯してはいけない罪を犯すことなど、オレは赦さない。

頼む心臓、もってくれ。純のような最低の人間の為に、可畏さんを人殺しになんかしないでくれ!

純の心臓はなんとかリズムを取り戻した。引き戸の前に座り込んだ純の息は弱く、意識はない状態だった。頭を下げ、両腕をだらりと広げ、両脚を投げ出し、血反吐にまみれた姿で動かない純を、可畏は冷たい目で見つめた。

悪神には分かった。この男にはまだ息がある……。容赦のない冷酷な視線が、今度こそ確実に純を弑する為に、ハンターの輝きを放ち細く眇められる。可畏が純に向けて足を一歩出した。志門は覚悟した。

次の一撃をくらったら、もう心臓は守れない──

可畏の前に、ひとりの人物が立ちふさがった。悪神は邪魔するものを睨みつけ、排除しようと手を振り上げる。しかしその手は、空中で止まった。目の前にいる天女の姿を食い入るように見つめる。

未祥は痛む脚と眩む目を叱咤し、意志の力で可畏の前に進み出た。裕生が止めたが、未祥はその手を強い意志を込め、そっと押し返した。

可哀想な可畏。両親を失い、弟を亡くし、今また、ずっと共に暮らしてきたあたしを失おうとしている。可畏の怒りと哀しみには、正当な理由がある。それでも、憎む相手を殺してはいけない。それだけは、決してさせない。

「やめて」

未祥は可畏を見上げ、静かな声で言った。哀しみと深い愛が溢れる優しい声だった。

「もう、やめて。もう……いいの。ごめんね、可畏」

未祥は軽く両手を広げ、可畏から純をふさぐ形で佇んだ。未祥も、純の事は憎かった。あの男のモノが意識のない自分の身体に入ったと思うと、このまま可畏を止めずにあいつを殺して欲しいと思う。

けれど、可畏が人を殺したら立派な殺人犯になってしまう。ひとを殺してしまって、心を壊さずに生きていける人間はいない。あたしが消えた後の残りの人生を、可畏に重荷を負ったまま送ってほしくない。

羅威に託された楓とらいらの為にも、可畏に純を殺させてはいけないと思った。