第百二十五話

可畏の目には、すべてが赤く燃えて映っていた。

強烈な怒りと凄まじい悪意。目の前にあるものはすべて叩き潰したくなるほどの、切なる悪への欲求。こんなものが今まで自分の中に存在していたなど、とても信じられなかった。

可畏は抵抗していた。心の中から湧き上がる未祥を奪われた哀しみと怒り。その純粋な可畏の感情を食いつくし、同調しながらこの世界に顕現しようと隙を狙っている獰猛な波動から逃れるために。

自分が象の印から解き放ったものがなんなのか、可畏には分からなかった。だが体を乗っ取ろうとするその邪悪なエネルギーは半端なものではないことは分かる。これに比べれば、多聞の命令に逆らう方がまだ易しかった気がする。

今まで村人を殺さずに済んだのは、この悪意からの完全な支配を頑強に拒んだからだ。そして──羅威。羅威が共にいて、強烈な暴走のパワーを押さえている。しかし、二人の決死の抵抗も徐々に力を失っていく。

可畏は老人の襟をつかんでいた。右脚に鋭い痛みを感じる。可畏の中にいるもの≠ェ激怒している。そいつは老人を確実に仕留めるために、鋭利な槍の先を大きく後ろに引いた。




尖った槍の先が老人の腹部に届く寸前、黒い物体が直下してきた。槍はその物体を刺し貫く。「ギャッ」とそれが鳴いた。同じような黒いものが次々とその場に舞い降りてくる。

「カァカァ」と鳴きながら可畏の周りを飛び交い、視界を遮ろうと顔の前に集まるのは、何十羽ものカラスだった。可畏は槍を取り落し、顔にたかってくるカラスをよける為、手を振り回した。カラスたちは叩き返されても、順番に可畏の身体に集まって老人への攻撃を封じている。志門の額から、安堵の汗が流れ落ちた。

あのカラスたちはオレの願いを聞きいれて動いてくれたのか……。オレに憑いた八咫烏が、オレの言葉を同朋に伝えてくれたのかもしれない。

志門は老人の元へ走った。光の祖父は玉砂利の上に横倒れになり、今や黒い小山のように見える可畏を呆然と眺めていた。「こっちに!」と言って志門は老人の腕を引っ張った。

老人が我を失った顔をしていたので、志門は背に担がなければならないか、と思った。しかし彼はよろめきながらも立ち上がり、志門の肩を借りて歩き出した。光たちのいる玄関前の石段に二人が到着すると、光が感謝の面持ちで志門に頷いた。

「降ろ……してください」

か細い、絞り出すような声がすぐ近くで聞こえて、光は手元を見た。未祥が光を見上げて、腕から降りようと体に力を入れている。でもその動きは緩慢で、怠くてたまらなそうだった。

「大丈夫か?」

光が訊くと、未祥はゆっくり頷いた。動作とは裏腹に、その瞳には強い光りが宿っている。光は未祥の足を石段につけると、肩に手を添え、慎重に立たせた。裕生が反対側に回り、未祥の腰を支える。未祥は「ありがと」と小さく言った。裕生は下唇を噛みしめて頷き、大切な親友の身体を抱き寄せた。

未祥は広場の可畏を見た。何羽ものカラスが可畏に叩き殺され、砂利の上に転がっている。それでも、可畏にたかるカラスはまだかなりの数がいた。

光は振り返り、自分より少し後ろで、呆然と成り行きを見ている三人に目をやった。拓己と正高は口を開けてカラスたちを凝視している。二人に挟まれた純はこの寒い夜に、大汗を流しながら猿ぐつわを噛みしめていた。

「純、鬼の命令を解け」

光が言うと、純は夢からさめたような顔で光を見返した。目はギラギラと光り、体は震えている。光は厳しい視線を純に向け、更に同じことを伝えた。

「鬼の命令を解いて、この場から逃げられるようにしてくれ。あの可畏はどうみても、可畏本人とは云えない。あいつの正体が何だか分からんが、恐ろしいヤツだということはお前にも分かるだろう。

カラスが押さえてくれているこの時がチャンスだ。頼むから、これ以上犠牲が出ないように、鬼たちに逃げろと伝えてくれ」

ほとんど懇願とも取れそうな口調で、光は純に頼んだ。純は小刻みに首を縦に振った。滴り落ちる汗が勢いで飛び散り、かがり火の明かりを跳ね返してキラリと輝く。純の肯定を受けて、光は純の後ろに移動し、口に噛ませていた日本手ぬぐいをほどいた。

口から異物が取り除かれた純は、少しの間荒い息を吐いて新鮮な空気を味わった。気温がグングン下がってきたせいか、純の息が吐き出される度、白いモヤが広がる。純は一度大きく息を吸い込むと、血走った目を広場に向けた。そして大声で命令を下す。

「そいつを殺せ! いっ……今がチャンスだ。今のうちにあの化け物をやっつけろっ。怪我や死を恐れるな。必ず僕を守れ!」

純から暗い命令の光り≠ェいくつも四方に放たれるのが、志門の目に見えた。老人を玄関の前に座らせていた志門は、急いでその場に横たわり、体から抜ける。純のすぐ間近にいた光と正高、拓己に鈍い光りが頭の中に侵入するところだった。

志門は光りに突っ込んだ。また跳ね返されると思ったが、今回は命令の破壊に成功した。三人の頭を巡って命令を壊し、舞い戻って光の祖父に届きそうになる光りも砕く。でも広場に散った命令はあまりにも数が多すぎた。多聞の命令の光りは立っている鬼十数人のみならず、倒れている者に対しても容赦なく下されてしまうらしい。

志門は広場に飛んだ。カラスたちが可畏の冷気を覆っている間に、すべてを破壊しなければならない。あの冷酷な波動がこの場の空間を歪めてしまっているなら、鳥たちによって波動が抑えられている今しかオレは役に立たない。