第百二十四話

「……なんてこった」

未祥のすぐ近くで男性の声がした。この鼻にかかった声は光さんだ。未祥は自分が光さんに抱き上げられ、運ばれていたのだと理解した。未祥は目を開けようとして瞼に力を入れる。

薄く見えた視界は、オレンジ色の光りがユラユラと揺れていた。暗くなったり明るくなったりするのは、炎が揺らめいて辺りを照らしているかららしい。未祥は何度かゆっくり瞬きして、視界がハッキリするように焦点を合わせる努力をした。

かがり火の、あちこち揺れる火灯りに照らされて見えたのは、光の顔だった。斜め下から仰ぎ見る形で、光のこわばった表情が目に入る。光の視線は前方にあるものを凝視していた。未祥は光と同じ方向を見る為、重い首を横に動かした。未祥の視界はまだほんの少し靄がかかっていた。

それでも、目の前に広がる惨状に震撼するには、ぼやけた視界だけで充分だった。




玉砂利を踏みしだきながら、志門は多聞家の玄関口が見える場所まで走った。パチパチ燃えるかがり火に照らし出された光景を見て、志門の脚の動きがゆっくりと止まる。

玉砂利が敷き詰められた広場にはたくさんの人が倒れ、血の匂いが充満していた。さっき志門が空中から見た時、その場に立っていた人間の三分の二以上が、呻きながら地面に横たわっている。

倒れている人たちはそれぞれが見るも無残な姿になっていた。顔面をつぶされた者、片腕をもがれた者、両方の足首から下が存在しない者、頭皮ごと髪の毛を半分剥がされた者……。

志門が可畏に弾き返された時、可畏に捕まっていた太った男も倒れていた。その男は左の頬が陥没していて顔面が血まみれだった。それでも、怪我をした人たちで死んだ者はいなそうだ。志門はその場に死の気配≠感じなかった。

だが、命がなくなるのは時間の問題だと思われる状態の人が多い。この寒空の下、大量に血を流している。大怪我をしたショックも手伝って、間もなく死を迎える村人もいるだろう。

可畏は志門から十メートルほど離れた場所に、背中を見せて立っていた。その可畏の向かい側に長い槍を構えて立っているのは、光の祖父だ。老人は厳かな表情で可畏をジッと見ている。手に持つ槍の切っ先は可畏に向けられ、いつでも無謀な攻撃を仕掛けられる姿勢を保っていた。老人の後ろでは、鬼達が身構えながら対峙する二人を見ている。

その時、多聞家の玄関の引き戸が内側から開けられた。カラカラ……と軽い音が聞こえ、開いた玄関口に人影が動く。最初に出てきたのは光だった。志門のいる場所から玄関は右斜め横に見える。志門からは二十メートルくらい離れていたが、あでやかな着物を体の上に掛けられた未祥を、光が腕に抱いているのは確認できた。

光は玄関前の石段の上まで歩み出て、愕然とした顔で悲惨な光景を見た。光に続いて、両脇を正高と拓己に挟まれた純が、二人に引きずられて姿を見せた。最後に現れたのは裕生で、外に出た後玄関の引き戸を元に戻す。裕生は光の横に立ち、目を見張って倒れている人々を眺めた。

そのまま裕生はぐるりと辺りを見まわし、志門の方を向く。裕生がハッとした顔をした。こちらへ向かって来ようと、裕生が足を踏み出す。志門は急いで右手を挙げ、裕生を制止した。そこで待て≠ニ身振りで示す。

裕生が足を止めると、志門はそっと玄関を目指して移動した。玉砂利の上で足音を立てずに動くことは不可能だった。ジャリジャリと忌々しい音を立てる石に冷や汗が滲む思いで、志門は光たちの元へ向かった。玄関前の石段下に脇から忍び足で到着し、志門は裕生を見上げた。

裕生は泣き出しそうな微笑を浮かべた。目には涙が光っている。あれは嘘泣きじゃなさそうだ、と志門は思った。階段の一段目に足を掛けた時、突如可畏が振り向いた。いきなり首だけヒュッとこちらに向けた感じだ。カッと開かれた灰色の目は、冷酷非道な光りを放っていた。志門の全身に、恐怖の寒気が走る。

あの目──。
あれは人間じゃない。刀利の鬼でもない。暴挙で人々を抑圧し、支配しようとする残忍な眼。人間の血に飢え、流血に猛り狂う本物の悪鬼。

悪鬼……? 
いや違う。あれは……あの何ものをも寄せ付けぬ、身も凍るほどの冷気は──

「悪神」

志門が可畏の正体を言い当てた瞬間、可畏が跳躍の姿勢をとった。来る、と志門は思った。あいつは一瞬でここに来る。可畏の理性を奪い取った悪神は、ためらうことなくオレを殺す。

志門はそれが分かっていて、それでも蛇に睨まれたカエルのように動けなかった。石段に片足をかけたまま、恐怖の表情を顔に張り付かせ、飛び上がる可畏を見ることしか出来ない。

「じいちゃん!」

光の叫び声が響く。老人は可畏に向け、渾身の力を込めて長い槍を突いた。槍の先端は飛んだ可畏の右脚に刺さった。跳躍した状態で、即座に可畏が後ろを向く。空中でグィッと体の向きをかえる姿は、人間の行える動作ではなかった。

また可畏は志門に背中を見せる。右脚のふくらはぎ部分から、ジーンズに血が染みて来ていた。老人はもう一度可畏に槍を突きつける。可畏は軽々と槍の柄を掴み、一振りして槍を老人から奪った。

老人は一度よろめいたが、すぐに体勢を立て直し今度は体ごと可畏に突進する。可畏はスィと老人をやり過ごし、振り向いて向きを変え、老人の背中の襟をつかんだ。志門から見える可畏の目に、荒々しい怒りが燃え上がる。

「やめろ!」

志門は叫んだ。可畏は全く表情を変えぬまま、手に持つ槍を後ろに引いた。槍の切っ先は、老人の脇腹に向かって真っすぐ走って行った。