第百十九話

「くっ、来るなぁっ。ちくしょう、止まれ!」

近づく光に純が命令する。光は純のむき出しの右腕をつかみ、上に持ち上げ純を立たせた。一九〇センチ近い光が、純の二の腕を片手でつかんで自分の顔に引き寄せる。純のかかとが上がり、爪先立ちになった。

怯えを隠さず、下唇を震わせて純が光を見返す。殴り飛ばすか、蹴り上げるか──どちらにしても純は無事ではいられない。裕生がつけた刀傷などかすり傷程度に思えるほど、悲惨な怪我になるのは間違いないだろう。

「光!」

純に向けて光が右手を振り上げた時、その声が掛かった。光は後ろを振り返った。純が光の手から逃れようともがいたが、光の握力の強さに勝つことは出来なかった。

光に声を掛けたのは父の正高だった。控えの間から寝所に向かって、蒼白な顔で走りこんでくる。そのただならぬ様子に、光の顔にも緊張が走った。

正高は寝所の様子を見たが、そのことについて何も質問する事なく、寝所の襖にすがりつくようにしてへたり込んだ。息を荒げ、ガクガクと体を震わせている。

「──どうした? 親父。何かあったのか?」

「あ……ぅ、あ、あ……」

正高は言葉にならない声を出した。言いたいことがあるのに、何かに衝撃を受けたせいで上手く話せないのだ。正高は何度か深く息をついた。そしてやっと意味の分かる言葉を口にする。

「あ……あれは悪魔だ。悪魔がここにきた」

「悪魔だと? なんのことだ。正気か、親父?」

「可畏だよ! 可畏がここにきたんだ。でもあれは可畏じゃない」

光の顔のすぐ横で、純がヒュッと息を吸い込んだ。またもがいて逃げようとする。光は更に手に力を入れると、父親に質問した。

「意味が分からん。可畏が来たのに、可畏じゃないのか?」

「すっ……姿は可畏に見える。でもやってることが人間業じゃない。鬼の業にも見えない。あい……あいつは走って城まで来たんだ。物凄い勢いだった。おれは直接見たわけじゃないが、見た奴はみんなそう言ってる。

純の命令で門番をしていた鬼たちは、可畏の城への侵入を阻もうとあいつに飛びかかった。そしたら、攻撃した奴全員が一瞬で吹っ飛ばされた。あいつは鉄パイプみたいなの持ってて……それを振ったんだ。ただ振った。それだけで五人が一度に倒されたんだ」

光は父の言っていることが、にわかには信じられなかった。可畏は確かに強いが、普通の人間より力のある鬼たちをそう簡単に倒せるだろうか。それも一瞬で五人も……。

けれど父がこの場で嘘をつく理由も必要も思い浮かばない。なんだか分からないが、外では非常事態が起こっているようだ。

「あ、あいつは……可畏は、こっちの言葉に耳を貸さないんだ。目の前にいる者はことごとく倒されてる。自分の前にいる者には、情け容赦なくパイプを振るう。血に逸った若い鬼がひとり、可畏に殴り掛かったら逆に可畏から殴り返された。そいつは二メートルほど飛ばされて地面に叩きつけられたんだ。

殴られた顔は潰れてた。鼻と頬の骨がメチャクチャになってたよ。その後、恐ろしさで逃げようとした村の若衆にも、パイプを振り回して次々倒して行った。助けてくれ≠ニ言っても聞いてくれない。無表情で、全く感情がないみたいな顔だった」

光は怪訝な顔をした。それは明らかに可畏らしくなかった。可畏は簡単に人を傷つけるような人間じゃない。それほど長い付き合いではないが、可畏の実直な性格は光にも分かっていた。未祥が連れ去られたことにブチ切れたのかと思ったが、どうやらそれだけではないようだ。

光の手の中の純の腕が、小刻みに震えていて振動が伝わってくる。歯がカチカチなる音がした。自分は人殺しのくせに、怒りまくる可畏を恐れているようだ。

「今、可畏と戦ってるのは純に使役されている鬼たちだ。その中に親父もいる」

「なんだって!? じいちゃんが?」

「ああ、おれは止めたんだが聞かないんだ。おれや親父は純から、侵入者と戦えという命令は受けていない。寝所のある三階に行こうとする者がいたら阻止せよ、と言われただけだ。だから親父は可畏が城の外にいる限り戦わなくてもいいはずだ。

それなのに、あの悪魔みたいな可畏の前に出て行った。こうするしかない、もう後には引けない≠チて何度も繰り返してた。親父はきっと、後悔してるんだ。例え多聞≠フ命令でも、ひとを──高川さんを殺してしまった事を……」

光は我知らず、純の腕を握る手に渾身の力を込めた。「痛っ……痛い!」と純が騒ぐ。光は頑なに自分の意志を変えない祖父の顔を思い出した。じいちゃんとは意見が合わず、憤りも覚えた。でも──俺のじいちゃんなのだ。

じいちゃんが伝説や言い伝えにこだわるのは、ひるがえせば俺たち子孫の為だ。親にとって子供たちが未来に続いていくことは、喜びであり、希望なのだ。人間が大昔から繰り返してきた切なる願い。それは子子孫孫が代々命を繋ぎ、幸せに暮らして欲しいということだろう。

刀利の伝説に関するじいちゃんの考えも行動も、俺とは相容れない。それでも光にとって、大切な祖父であることに変わりなかった。

「裕生、未祥に服を着せてくれ」

光はそう言うと、純の腕を力を込めて振り放した。純は勢いよく後ろに倒れ、裸の尻を畳に打ち付ける。その拍子に純の腕が行燈に当たり、ガタンと横に倒してしまった。

行燈の中のロウソクが消え、細い煙がそこから立ち昇った。