第百十八話

「裕生、俺を刺せ」

光に言われ、裕生はやっと脚を止めた。一瞬何を言われたのか分からず、ポカンと口を開けて光を見ている。

「その刀で俺を刺せ。ちゃんと腹を狙うんだぞ。ちょっとやそっとの怪我じゃ俺は動いちまうからな。純の奴は侵入する者を殺せ、と言ったが、殺されろとは言っていない。俺を刺して、後ろの部屋へ行ってくれ」

裕生は目も口も大きく開けたまま、光を呆然と見ていた。自分を理解してくれた初めての大人が光だった。おおらかで人が好くて、優しい光さんをあたしが殺す……? 裕生は首を横に振った。

自分が刺されるかもしれないのは、何故か怖くなかった。でも自分が刺すとなると、恐ろしさのあまり身がすくむ。光を殺すなんて出来るわけがない。

「早くやれ。俺はもう、もたない。今やらんと未祥が再生してしまうぞ」

裕生は刀を構えた。なんで自分がこんなことをしているのか、分からなかった。ただ一つ分かることは、光も自分と同じ気持ちだ、ということだけだ。

あたしが刺さなければ、光さんはあたしを刺す。
そしてそれは光さんも、絶対やりたくないことなんだ──

裕生の構える刃に向かって、光が走り出した。裕生は両手で刀を前に突き出し、硬直して近づく光を見ていた。あと二歩で裕生の元に着く。その瞬間、光の頭で光りが弾けた。突然体が軽くなり、光はその場に倒れこんだ。裕生は慌てて刀を横に向けた。

膝と手をついて畳に座り込んだ光は、全身からドッと汗が噴き出すのを感じた。なんだか分からないが、頭の中を黒いものが通り過ぎた。それが光の頭にあった暗い光りを壊したのだ。今はもう、純から受けた命令の呪縛≠感じない。侵入者の裕生を殺さなければならないという切羽詰まった感覚も、完全に消えてしまった。

「──志門か?」

光の記憶に、志門が羅威からの命令を打ち壊し、可畏が命令から解放された時の情景がよみがえる。光は顔を上げて裕生を見た。裕生も同じ記憶を辿っているようだった。ホッとして、泣き笑いのような顔になる。でもそれも一瞬のことで、やにわに刀を構えると、裕生は隣の部屋に向かって駆け出した。

花鳥の絵がしたためられた金色の豪奢な襖を、裕生が勢いよく開ける。まず見えたのは裸の男の背中だった。その部屋は薄暗く、照明は布団のそばに置かれた行燈のロウソクだけだ。裕生が襖を開け、控えの間の電灯の光りが差し込んだのでその光景が見えた。

男は布団にうつぶせの状態で、腰から下に布団を掛けて背中を見せていた。裕生は部屋に飛び込んだ勢いのまま、その背中に向けて刀を切りつけた。純は驚いて振り向き、咄嗟に横に逃げる。裕生の刀は純の左上腕部に当たった。切れ味のよい刀は、純の腕にざっくり切り傷をつけた。

「うぉあ────っ」

吠えるように純が叫んだ。右手で傷口を押さえ、叫びながら布団から這い出る。純は素っ裸だった。純が今までいた場所に、未祥も寝かされていた。未祥も何も身に着けていない。

裕生は見た。見てしまった。意識のない未祥が布団に仰臥している。両手をだらりと体の横に投げ出し、脚も大きく開かれている。脚の間の敷布団には──赤い血が沁みこんでいた。

「未祥!」

裕生は刀を投げ、未祥に駆け寄った。未祥の足元に折り返された掛布団を大急ぎで引っ張り上げ、未祥をくるむ。裕生は弛緩した未祥の体を膝の上に抱きあげた。自分の両腕が激しく震えて上手く動かないのが分かった。

血……。あれは血だった。女が初めて男に抱かれたときに流す血。認めたくないが、それとしか考えられない。未祥は純によって処女を奪われてしまった。

「この女を殺せ!」

部屋の奥に逃げ込んだ純が、床に座り込み、傷ついた腕を押さえながら言った。裕生に続いて部屋に飛び込んだ光は、血の気のなくなった顔で未祥を抱きしめる裕生を見ていた。

「未祥……、みひろぉ!」

呼びかけながら、力のない未祥の体を裕生が揺する。光はおぼつかない足取りで、よろめくように裕生のそばに座った。

「何をしている! 早くこのバカ女を殺すんだっ。ぼ、僕を切ったんだぞ。ああ、痛い! 早く殺せッ。何でお前ら動かない!?」

裸で腕を押さえ、殺せとわめき散らす純を光は色を失った顔で見た。恐る恐る部屋に入ってきた拓己も口元を引きつらせて純を見る。多聞の命令は鬼の頭に届かなかった。純から放たれた命令の光りは、二人に届く前に神使である八咫烏がすべて打ち壊していた。

「……やったのか?」

裕生の隣に跪き、未祥の名を繰り返し呼びながら震えている裕生の肩を抱き寄せて、光は純に訊いた。純は鬼たちが何故自分の命令を聞かないのか分からず、困惑して目をキョロキョロと動かした。光は裕生の肩を離すと、ゆっくり立ち上がった。

「やったのか? 未祥を──犯したのか?」と純に近づきながら訊く。純は手足を縮め、一瞬怯えた顔で光を見たが、すぐに頬を歪めて笑った。勝ち誇ったような笑顔だった。

「ああ、やったさ。でも僕は最後までいってない。これからが一番イイとこだったのに、その女が邪魔しやがった。早くそいつを殺せ。比丘尼の中は最高にいい味なんだ。普通の女とは全然違うよ。この先何年かはこれを味わえないんだ。今晩たっぷりやり尽くしてやる。だからサッサと命令に従え」

ニヤニヤ笑いを顔に張り付かせて純は言う。それはまさしく呪われた多聞≠フ顔だった。腕から血を流した状態でも、比丘尼を犯すことをやめようとしない。色と金の欲に支配された多聞家の呪い。

光は怒りの形相で純に近づいて行った。「止まれ」と純が言う。それでも光は止まらない。唖然とした顔で純が後ずさった。ここにきてやっと、純は何かがおかしいと気付き始めた。