第百十七話

「ここで停めて下さい」

志門は運転席の茉菜に声を掛けた。車は多聞邸から少し離れた農道を走っていた。城の周りはかがり火が焚かれ、離れた場所で見ても物々しい雰囲気だった。

「どうしたの? もうすぐ着くわよ」

茉菜がブレーキを踏み、不思議そうに志門に訊く。志門は赤々と浮かび上がる多聞家を睨みつけて、説明した。

「城の周りには警備の人間がたくさんいるんですよね? そこに行く前に、やりたいことがあるんです。オレは今から、意識を外に出します。見た目には眠ってるように見えると思います。意識がない間は、オレは体を動かせません。その間見張っててほしいんです」

「なんだそりゃ? どういうことだ?」

朝さんが後部座席から声を上げる。志門は朝さんと茉菜を交互に見た。

「オレにはちょっとした能力があります。自分の意識を外に飛ばして、ひとに気付かれずに周りの様子を見ることが出来るんです。詳しいことは後で話します。やってみていいですか?」

茉菜は目を丸くして朝さんと視線を合わせた。朝さんも同じ顔で見返してきたが、二人は同時に頷き合った。

「分かったわ。城の中の様子が見られるのね? 大丈夫、志門くんの体はちゃんと見とく」

「すみません。お願いします」

言うが早いか、志門は座席の背もたれに体を預け、目を閉じた。そして自分の体から出ると、かがり火に照らされた多聞家に向かって一気に空を切った。




太陽が沈んだ夜の山の中で、一頭の牡鹿が食べられる物を探して鼻を動かしていた。真冬の寒い夜には蠢く夜行動物も少ない。牡鹿の耳がピクリと動いた。耳をピンと立て、音に集中する。

その気配は村の道路から来ていた。道路を何かが走ってくる。牡鹿はじっと山間にある人里を見ていたが、突然身をひるがえした。そのまま山の奥に向かって、一目散に走り出す。その姿は、腹を減らした熊に追い立てられているように切羽詰っていた。

牡鹿が餌を探していた場所の近くに走る道路を、それは通り過ぎて行った。鉄パイプを握って疾走するそれは、動物の本能が恐れるほど邪悪な気配を振りまいていた。




控えの間≠ナ正座した光は、腿の上の袴を握り締めていた。背後には花鳥の絵が描かれた部屋の襖が、隙間なく閉じられている。憤りのあまり噛みしめているせいで、光は自分の歯にヒビが入るかもしれないと思った。

それでも今の自分には、歯を食いしばることと袴を破れそうなほど握り締めるしか出来ることはない。動けず、ことが終わるまで隣の部屋で耐えるしかないのだ。

すまん、未祥! 俺は役立たずだ。

光は下を向き、ギュッと目を閉じた。握り締めた自分の手に涙のしずくが次々落ちる。今、後ろの部屋では意識のない未祥を純が抱いている。死に物狂いで抵抗した未祥も、薬を打たれてはどうにもならなかった。

光は純の冷酷な本性を知って、心が凍りつくほどの恐ろしさを覚えた。やはりあいつは多聞≠フ血を引いている。自分の欲の為ならどんなことでもする気だ。事実、やつは村人を殺した。

光はあのほがらかな純が本当にそこまでするとは思わなかった。一緒に仕事をしている時は、明るく誰にでも好かれる奴だった。要領がいいのか、知恵が回るのか、あいつは樽運びなどの大仕事は上手に免れて、いつも楽な仕事を担当していた。

それでも場を盛り上げることの上手い純を、みんなは大目に見て付き合っていた。黙々と仕事をこなす羅威だけは、そんな純と関わろうとしなかった。俺の眼は節穴だ、と光は思う。あいつが羅威の友達などという言葉を疑いもしなかったなんて……!

ゴリゴリ音が鳴るほど歯を噛みしめていた光は、スッと襖の開く気配で顔を上げた。自分がいる控えの間の、廊下側の襖が開けられていた。最初に見えたのは拓己だった。相変わらず悲しそうな顔で光を見ている。

拓己は控えの間に入り、促すように後ろを見た。後から入ってきた人物を見て、光は総毛だった。驚愕のあまり、今度は顎が外れそうなほど大口を開ける。

「……裕生!」

掠れた声で光は言った。裕生は下唇を噛みしめ、光を凝視している。右手には抜き放った刀を持っていた。「ダメだ」と光は続けた。

「ダメだ、裕生。ここへ来るな。来ると俺はお前を……」

「どいてください」

静かな声で裕生が言った。光は反射的に立ち上がり、攻撃の為に身構える。裕生は一歩前に出た。切っ先を下に向けた刀が、部屋の蛍光灯の光りを受けてきらめく。光は意識とは裏腹に、脇差しの小刀を抜いた。絶対出来ないと思うのに、多聞の命令が光の体を動かしていた。

「ダメだ、裕生。止まれ!」

近づいてくる裕生に向けて振りかざしそうになる小刀を、意志の力で無理矢理押し止め、光は懇願した。寝所へ入ろうとする者は殺せ、と言われている。裕生には光と戦う意思が見えず、刀を構えてはいない。でも裕生が背後の部屋に入ろうとしただけで、俺は裕生を殺してしまうだろう。

震える小刀を自分に向ける光に向かって、裕生はひるむことなく歩いて行った。光の懇願もむなしく、裕生は止まろうとしない。光は自分の体が、裕生を殺傷するために体勢を整えてしまうのが分かった。裕生の後ろでは拓己が蒼白な顔で成り行きを見守っている。

更に裕生が光に近づく。光は低く呻くと、小刀を持った右手を上にあげた。涙を流し、全身全霊で命令に逆らおうとする光の意志は、超人的な力で自分の身体を止めていた。