第百十六話

「きみ……」とその人が囁き声で言った。裕生は硬直したが、歯を食いしばると刀の柄に手を掛けた。目の前にいるのは拓己だった。

裕生は拓己を睨みつける。拓己は口を閉じ、サッと後ろを確認した。そしてまた裕生を見て、人差し指を立ててから唇に当てる。静かに、という意味だ。拓己は階段を降りながら裕生の腕をつかんだ。「こっちに」と低い声で囁く。

裕生は混乱したが、とりあえず拓己について行った。拓己の態度は裕生を何かから庇おうとしているように感じたからだ。拓己は小走りに裕生が来た廊下を戻っていく。裕生も拓己に腕を引かれて脚を動かした。

また秋の部屋の前にたどり着き、拓己が襖を開ける。拓己は先に裕生を部屋に入れると、自分も後に続き、後ろ手に襖を閉めた。裕生は拓己から離れて刀を抜いた。両手で刀の柄を握り、いつでも攻撃出来る体勢を取る。拓己は驚いて口を開けてから、悲しそうに眉をひそめた。

「あんなことをしてすまなかった。きみが怒るのは分かるよ。でもおれは敵じゃない」

「どういう……ことですか?」

裕生は油断なく刀を拓己に向けて言った。拓己は力なく肩を落とす。

「おれは純に子供を殺すと脅されて、君たちを騙したんだ。言い訳にしかならないのは分かってる。でも本当に、おれはきみの敵じゃないよ。今もきみが目覚めたかどうか見に来たんだ。もし目が覚めてたら、今のうちに逃がそうと思って」

裕生は呆然として拓己を見た。純がこの人の子供を殺すと脅した……? あの男、あんな優しそうな顔してなんてことを──! 

これは本当に、大変な事態になっているようだ。裕生は額から冷や汗を流して拓己に訊いた。

「あたしを逃がすって……。今、純はどうしてるんですか?」

「純はさっきまで、敵が城に侵入してこないように鬼と協力を申し出た村人に細かく指示を出してたんだ。敵っていうのは可畏だよ。可畏はおれがきみを連れて行った後、純がいくつか手を使って殺そうとしたらしいよ。

でもそれを全部振り切って逃げたみたいなんだ。可畏が捕まるのは時間の問題だと思う。あいつはここに向かってるって話だけど、村人のほとんどが純の云いなりになってるから。純は……あいつは情け容赦ないよ。確実に、可畏を殺すと思う」

そう言った拓己の顔は、恐怖のあまり引きつっていた。何かを思い出したのか、ブルッと一瞬身を震わせる。その切羽詰った表情に、裕生の不安が強くなった。一体この拓己という人は、何を見てしまったのだろう。

「どうしてそう思うんですか?」

「じゅ……純の奴、村の北野さんと高川さんを、見せしめだと言って殺したんだ。可畏を殺しに行ったのに、仕留められずに逃がした罰だって。北野さんのことは、純が刀で腹を刺した。高川さんは、光さんのお祖父さんが槍で突いた。純に命令されてやったんだ」

「なんでそんな……っ。だって同じ村の人でしょう?」

「そ、そうだけど、今、純は自分が多聞≠ノなって、天下人みたいな状態なんだ。あいつが言うには、ちゃんと言われたことが出来ない人間は必要ないから消すってことらしい。北野さんも高川さんも、必ず可畏を殺すって息巻いてたんだ。

でも可畏は大の大人が六人もで襲っても、あっさりかわして逃げた。可畏を追いかけて山に入った人たちも、全く歯が立たなかったって話だ。純は可畏が城まで来るかもしれないと焦って、比丘尼を薬で眠らせたんだ。そのせいで恵み≠授けてもらうことが出来なくなった。

だから『鉱石組』の北野さん達は、すぐに仕事もないし、このまま十六年間ボケッと生きられるのはただの老害だから、どうせなら責任とって死んでくれた方がいいって……」

「眠らせた? 未祥は意識がないんですか?」

「うん、そうだよ。純は今、再生の為に比丘尼と寝所に入った。多分純は、その後比丘尼に恵み≠授けさせるつもりだと思う。再生は深夜0時から始まるから、それまでに無理にでも比丘尼を起こしてやらせる気だ。

北野さんも高川さんも、本当は殺す必要はなかったんだ。あいつは──笑ってた。あんたら僕が子供のころから、誰のタネのガキかわかんねぇって、バカにしてたよね? 僕がどんなに悔しかったか分かる?≠サう言って笑いながら北野さんを刺した。

純が二人を殺した本当の理由は、バカにされた腹いせだよ。あいつは恐ろしいヤツだ。きみもこのままここにいたら、何をされるか分からない。純が寝所にいる間に逃げた方がいい」

裕生は頭の中に心臓が移動したかと思うほど、耳にガンガン心拍音が響いた。比丘尼は純と寝所に入った──それが意味することは、ただ一つだ。裕生は拓己に向かって刀を突きつけた。拓己は驚愕で縮み上がる。裕生は拓己を真っ直ぐ見据えて言った。

「あたしは逃げない。お願いだから、未祥のいる部屋に案内して。まだ間に合うかもしれない」

「だっ、駄目だよ。寝所の前には光さんがいるんだ。何人も中にいれてはならない、入ろうとするものがいたら殺せって命令されてるんだ。おれは根性無しだからって理由で任務を外された。

とりあえず見張りをするだけでいいって。だからこうして動けるんだ。でも光さんは鬼術使いだ。きみが近づいたら確実に殺されてしまうよ!」

「いいから案内しなさい! やれるだけのことをするのがあたしの信条なの。何もしないで後悔するのは絶対イヤ」

裕生は刀を振り上げた。拓己はタジタジになり後ろに下がる。裕生の目は本気だった。拓己は今にも泣き出しそうな情けない顔で、しばし裕生を見つめた。やがてため息をつくと、ススキの絵の襖に手を掛ける。

「分かった、案内するよ。ただ、死ぬかもしれない。そのことは覚えておいてくれ」

裕生は無言でうなずいた。拓己が襖を開ける。「このすぐ上の部屋だよ」と言って、廊下を歩きだした。裕生はさっきと同じく、夏と春の部屋の前を過ぎる。震える右手に刀を握り、階段を昇りながら裕生は祈った。

神様お願い、間に合いますように──と。