第百十四話

裕生が目を覚ますと、まず木目の入った天井が見えた。これはうちの和室の薄っぺらな天井板じゃない、と裕生は思った。つやのあるその天井は、値段の高そうな美しいヒノキだったからだ。

いい匂いのする部屋だった。お金持ちの伯父さんが総ヒノキで建てた家と同じ匂いがする。伯父さんの豪華な家に遊びに行った時、父さんじゃなくて伯父さんの娘に生まれりゃよかった、と思ったことを思い出す。

裕生は起き上がろうと体を動かした。途端にクラリとめまいがする。頭の重さと体のダルさを、突然自覚した。ここは……どこだろう。伯父さんの家ではないはずだ。あたしは何してたんだっけ? 

裕生は必死で記憶を辿った。未祥の同居人の可畏さんの顔が、記憶の中から浮き上がる。そうだ、あたしは可畏さんと一緒にいたんだ。あの刀利村の標識のすぐ前の空き地で、可畏さんと一緒に光さんが戻って来るのを待っていた。

そしたら可畏さんの従兄だという男の人が来たんだ。拓己と名乗るその人は光さんに頼まれて迎えに来たと言った。可畏さんは拓己さんのことを覚えていた。四つ年上の拓己さんに、小さい頃ずいぶん遊んでもらったらしい。

大人しくひとが好さそうな笑顔の拓己さんは、ウソをついているように見えなかった。事実可畏さんも拓己さんを疑うことなく、光さんの代理だという話を信じていた。拓己さんの車に乗り、その中でパック入りのジュースを渡された。甘そうなコーヒー飲料だった。裕生はそれを飲んで、拓己さんと少し喋った。

拓己はちょっとオドオドしながらも、一歳になる自分の子供のことを話してくれた。携帯に貼り付けた子供のプリクラ写真も見せてもらったのだ。子供が「パパ」と呼んでくれるようになって、すごく嬉しいんだと目を細めて語ってくれた。

そうこうしているうちに眠くなってきた。ものすごい眠気だった。あんなに睡眠欲を感じるのは数学の授業の時くらいだ。刀利村に入って、川に掛かる橋を渡った辺りで眠ってしまった。可畏さんと別れてから十五〜二十分後くらいだろうか。

睡眠薬? と裕生は思った。飲んだ薬が効いてくる時間は大体二十分後くらいだから……ジュースに薬が混ぜられていたとしたら、あの辺りで眠くなってもおかしくない。

ということは、あたしは眠ってしまった≠フではなく、眠らされた≠だ!

裕生は一瞬、パニックに襲われそうになった。焦りのあまり慌てて上半身を起こして、またひどいめまいに襲われた。まだ薬が抜けきっていないんだ、と思った。後で飲もうと思ってジュースは半分しか飲まなかった。全部飲んでいたら、今頃まだ眠っていたかもしれない。裕生は自分のセコさにちょっと感謝した。

あたしは何かされたのだろうか。ゾッとしながら全身に意識を巡らせる。どこも痛いところはなかった。脚の間も変な感じはしない。多分、あたしの処女膜はまだ存在する、と裕生は判断した。

初めてのHはドラマチックに──とか夢見ている訳じゃないが、それでも見ず知らずの男に寝込みを襲われてバージンを失うことは、人生の予定に入っていない。

裕生はゆっくり首を回して部屋の中を確認した。ススキの絵が描かれた襖が四方に見える。金粉が散らしてある襖も、天井と同様、値が張りそうな印象だった。裕生は部屋の隅の方に敷かれた、フカフカの布団の上に寝ていた。布団もかなり高級なものだと分かる。

部屋に家具らしきものはなにもなかったが、床の間に掛け軸が下がっていた。掛け軸の手前には刀が飾ってあった。段違いになっている刀掛台に短いものと長いものの、二本の刀が飾られている。

裕生は朦朧としながら床の間まで這っていった。体が重くて前に進むのがやっとだ。瞼が重く、油断すると下瞼とくっつきそうになる。

床の間の前について、よろめきながら膝立ちになり、刀に手を伸ばした。上の段に掛けられていた短い方の刀を手に取る。刀はズシリと重かった。長さは五十センチくらいだろうか。短刀と呼ぶには少し長い。

裕生は刀の柄を握り、鞘から抜き取った。部屋の電灯の光を跳ね返し、ギラッと光った刀は研ぎ澄まされて切れ味が良さそうだった。飾り刀ではないのか……。裕生は一度刀を置くと、左腕の袖をまくった。そしてまた刀を手に取り、思い切って腕に刀の刃を当てた。

軽く当てただけなのに、裕生の腕はピッと切れて痛みが走った。見る間に血が湧いて出てくる。これは本物の刀だ、と裕生は思った。腕の皮膚は切れて痛かったが、おかげで目が覚めた。

裕生は刀を鞘に戻し、その場で体育座りになった。刀をすぐそばに置いて、目を閉じて考える。あたしは眠らされた。ええと、その前は可畏さんと一緒にいて、戟を持って光さんを待っていた──。

そうだ、戟! 裕生は大急ぎでショートパンツのポケットを探る。そこには何もなかった。右のポケットに入れておいた戟がない。という事は、あの拓己さんは戟を奪うためにあたしを眠らせた? それでは純が提案した、未祥と可畏さんが無事村に入るための計画も、狂ってしまったことになる。

裕生は全身の血が一気に足元に下がった気がした。なんだか分からないが、おかしなことになっている。まさかあの拓己という人が、戟を奪い多聞≠ノなってしまったのだろうか。そうなると戟の所有者は可畏さんじゃないんだ。裕生の目の前が真っ白になった。

未祥……。未祥はどうなったの? もしあの気の弱そうな拓己って人が物凄い悪者で、未祥を襲ったとしたら──。

ああ、あたしのバカッ。なんでジュースなんか飲んじゃったんだろう。その前に、疑いもせず拓己の車に乗ったのが悪かったんだ。ちゃんと光さんに連絡を取れば良かった。ちょっと確認を取れば騙されていることに気付けたのに!