第百十二話

男は鬼術使いだった。

男が振り回したナイフが可畏の左側の二の腕をかすめる。軽い痛みが可畏の腕に走った。赤黒い髪の若い男は身軽だった。夜衆の血を引いた若い鬼は、多聞の命令通り可畏を抹殺しようと攻撃してくる。

可畏にナイフをよけられた男は、振り向きざま今度は脚をけり出す。可畏は後ろにステップして脚をかわした。すかさずまた男がナイフを突きだす。左に半回転してナイフの先端をギリギリで回避する。

山中で襲ってきた村人八人を倒し、村に入ってすぐの道路で十人に囲まれた。鬼ではない中年の男性四人はあっさり倒せた。残り六人のうち五人は、命令のせいでしつこく攻撃してきた。しかし腕はそれほどでもなく何とか打ち取ることが出来た。

鉄パイプを振り回すなどチンピラ風情のことはしたくなかったが、相手も必ず凶器を持っているので応戦しないわけにはいかなかった。残りはこの若い鬼ひとり……。動きは志門より遅いが、ずっと足場の悪い山の中を走り抜け、攻撃してくる男たちと戦い続けていた可畏は、さすがに疲れがたまっていた。

「ふらついてるぜ、逃亡者≠ウん」

あざ笑うような笑顔で相手の若い男が言った。楽しそうに舌を出すと、ペロリとナイフを舐める。可畏は不思議な気持ちでその青年を見た。こいつは俺を殺すことに全く躊躇いを感じていない。

多聞の命令は鬼にとって絶対だが、本人の意思に関してまでは影響されないはずだ。心は命令と反対のことを考え、どうしてもイヤならある程度逆らうことも可能なのだ。それなのにこの男は嬉々として可畏に襲いかかってくる。

「あんた強いな。めちゃくちゃ楽しいよ、こういうの。毎日、毎日、おんなじことばっか繰り返す生活なんて退屈だもん。鬼術習っても役に立つ機会があるのかなんて分かんなかったしさぁ。やっと実力を試す時が来た。プレステなんかより全然ヤバいぜ、これ」

ヘヘッと笑って青年はナイフを右手から左手に向けて飛ばした。何度もそうして左右にナイフを行き来させる。こいつにとってこれはゲームなのだ、と可畏は思った。刺激が欲しくて、多聞の命令に自ら従う。

この男からすれば、可畏の命や未祥の運命は、取るに足らない問題でしかない。目的も目標もない、ただの退屈しのぎ。可畏の胸の中心がまた熱くなった。訳のわからない怒りが胸の真ん中を焦がす。こんな奴の相手になるなど、時間の無駄だ。早く未祥のところへ行きたいのに……。

可畏は後ろポケットに突っ込んだチンピラのナイフに手を伸ばした。今まで誰も殺さないように手加減してきた。でもこれ以上邪魔されるとなると──俺はどうなるか分からない。

男が可畏に向かって走り出した。でもその足は可畏に倒されて地面にのびていた村人に引っかかってよろめく。青年はなんとかバランスを取ると、「邪魔だ、ボケ!」と言って村人の頭を蹴り上げた。可畏の胸の中心の温度がまた高くなる。仲間を思いやる気持ちもない。可畏の目に荒々しい怒りが現れる。

「いい目してるじゃん。オレの相手にふさわしい」

明らかにテレビアニメの見過ぎかと思われるセリフを吐き、男は襲いかかってきた。男がナイフを持った右手を、横に振り払う。可畏は後ろにジャンプしたが、ナイフの切っ先が胸元に走った。

可畏のカーキ色のジャケットの前身頃に横線が入る。胸ポケットが破れ、中に入れておいた羅威の髪の毛がパッと飛び散った。

可畏は目の前に舞う、自分と同じ色の髪の毛を見て息を止めた。羅威の遺品が──弟の大切な遺髪が飛んでしまう。可畏が髪を少しでも捕まえようと手を伸ばす。そこにまたナイフが迫る。

可畏はナイフをよけると、回転しながら渾身の力で蹴りを入れた。男の腹に可畏の脚がヒットし、男はうめいてくずおれる。可畏は暗闇の中、散った羅威の髪の毛を見つけようとした。そこに人のざわめきが聞こえてきた。

「いたぞ、あそこだ!」

可畏が顔を上げると、いくつもの懐中電灯の光が目を射抜く。まぶしさに目を細めた。

「捕まえろ!」

「殺せっ」

呼び交わす声がして、沢山の光がこちらに迫ってくる。何人いるか分からないが、足音の大きさから相当な人数だと思われた。可畏の両手が震え始めた。それは恐怖ではなく、怒りだった。

未祥に会いに行く──その目的を、これ以上邪魔されてたまるか。

懐中電灯の光に反射して、自分の周りをキラキラした粒が飛び交うのが可畏の目に見えた。光の粒……。それは羅威が霧散した時のものと同じだった。可畏は握った手を開いてみた。さっき羅威の髪の毛に手を伸ばした時、ほんの少し掴めた分が光っている。

やがてそれは可畏の手からふわりと浮き、ゆっくり渦巻くように可畏の周りを飛び始めた。小さな光の粒は可畏の体にくっつくと、スッと体の中に吸い込まれた。羅威の遺品の髪の毛すべてが、輝く粒になり可畏の体に入っていく。

「……あ……」

羅威の光が体に浸み込むにつれて、可畏の内側から熱い放流が湧きあがってきた。その熱は今まで留めていた胸の中心の熱さに集約されていく。心臓の音が指の先まで振動を与えている。

ドクッ、ドクッ、ドクッ……。

力強い拍動と共に可畏の目の前が赤く染まった。いけない、と可畏は思った。これを解き放ってはいけない。この力は強すぎる。

そして──悪に満ちている=B