第百十話

「あたしのことはさっき言ったから省くわね。こちらが源さん。みんなからおやっさんと呼ばれてるわ。源さんのフルネームは──忘れちゃったわ」

茉菜が年配の男性を手で示していった。源さんは胡坐をかいてククク、と笑う。茉菜が名前を忘れたことなど気にしていないようだ。

「源さんでもおやっさんでも、好きな方で呼べや」

白髪頭で皺の多い顔に、おおらかな笑いを浮かべながら源さんは言った。志門は光の祖父と同じくらいに見えるこの源さんが、笑ってくれてホッとした。

「おやっさんはこの酒蔵の杜氏(とうじ)なの。杜氏、って分かるかしら」

「はい。テレビで見たことあります。酒蔵の蔵人の大将ですよね? 親方みたいな」

「優秀、優秀。よく分かってるわね。源さんはこの刀利村の酒蔵『鬼壱』の一番偉い人なの。そしてこちらが古沢朝彦さん。朝さんは酒米を作る指導者よ。簡単に言うと、お酒を造る時の親方が源さん。お米を作る時の親方が朝さんってこと」

「はい、わかりました。よろしくお願いします」

志門はみんなに向かって頭を下げたが、なんとなく不思議な気がした。この人たちが大将となると、光さんは何になるのだろう。その疑問は、茉菜が続けて話す内容ですぐに解明した。

「光くんがこの村で酒造りを始めようとした時……もう十年以上前になるわね。その時、他県に住んでた元杜氏の源さんをここに引き抜いたの。ここは源さんの部屋なのよ。酒造りの作業は気を抜けない期間があるから、すぐに蔵に行けるこの場所で寝起きしてるの。

こっちの朝さんはこの村の出身よ。もともと鉱石の採掘ではなくて農家の方を本業にしていたの。だから光くんは、最初の酒米作りを朝さんと、朝さんのお父さんと一緒に試行錯誤しながら進めたそうよ。あ、もちろん、あたしは後から聞いただけ。あたしがここに来たのは三年まえだから。

光くんは『鬼壱』の発起人で専務の役についてるけど、普段はあたしたちと一緒に蔵人をやってるわ。ちなみに社長は光くんのお父さんの正高さんよ」

「おれぁ、自分とこの酒蔵の後継ぎがなくてな、締めちまったんだ。ガックリふさぎ込んでたとこに、光から是非刀利に来てくれって打診があった。二つ返事で請け合ったよ。

今ではおやっさんとか呼ばれて威張ってっけど、あの時光から話がなかったら今頃何してたか分からん。やることなくて、もしかしたら死んでたかもしれん。だから光には感謝しとるよ」

白髪の混じった眉と目尻をを下げて、源さんが笑って言った。そこで隣から声が上がった。

「俺も光の奴がここで酒造りを始めてくれて良かったと思ってる。聡さんと比丘尼が逃げた後、この村は閉塞状態だったんだ。採掘の仕事についてた奴は比丘尼の恵み≠フ岩を掘り尽くしてから、やることがなくてクサッてた。

俺達農家組の手伝いをしてくれる奴もいたが、こっちもさほど実入りが良くなかったしな。そんな時、光が多聞に交渉して村に道路を開いてくれたんだ。自分の親父を社長にして、借金してデカい耕耘機を買って、その上酒蔵まで建てた。

蔵も元々は、こんなに大きくなかったんだ。酒に人気が出たから建て増し出来たんだよ。当初はあいつもまだガキだったのに、よくやったもんだ。俺の親父はもう年で農業から身を引いたけど、俺の息子が後を継ぐし、『鬼壱』は順調にやっていける。だから俺たちは光の味方だ」

朝さんはそう言うと、志門を見て日に焼けた顔をほころばせた。志門は気が緩んで泣きそうになった。この村は、敵だけじゃない。みんながみんな、鬼と比丘尼の伝説をぶり返そうと思っている訳じゃないんだ。

「あたしたちは今が酒造りの最盛期だから、村の老人たちが中心になって何か計画してることに、あんまり注意を払ってなかったの。そしたら今日になって突然、おじいさん達がバタバタしてるからビックリしちゃった。

夕方には羅衆と夜衆の一族はみんな多聞家に集合しろって言われて、蔵人の中でも鬼の血を引く人たちは早退しちゃったのよ。光くんには携帯に何度も電話してるんだけど、呼び出し音すら鳴らないで、電源が入ってませんってアナウンスが聞こえるだけ。

それで朝さんが何度か多聞家まで出向いて、様子を見てきてくれたの。多聞家の門の出入りをチェックしてる人にたまたま朝さんの知り合いがいて、あの純くんが多聞≠ノなったって聞いて、大慌てであたしたちに知らせてくれたの」

茉菜が一人一人にお茶を配りながら言う。眉は不安そうにひそめられていた。古沢朝彦も苦々しい表情で後を引き継ぐ。

「鬼のじいさん達は、比丘尼様が戻って来たって舞い上がってたぞ。女で車に乗れる人は街に買い物に行かされるし、ばあさん達は多聞の台所に詰めてるし、男たちはバットとかゴルフクラブとか持って集まってるし、みんな尋常じゃなかった。

自治会長の高川さんと、俺と同級の北野もその中にいて呆気に取られたよ。あの人たちは鬼じゃないから、自分から志願してあそこに集まったんだ。きっとあれだよ。採掘の仕事がなくなった後、ろくに働かないで聡さんのことばっかり責めてたから、比丘尼様が来てまた昔みたいになれると思ったんだろう。

情けない奴らだよ。俺が酒造りを手伝う話を持って行った時、あいつらはバカにして取り合ってくれなかった。村では『鉱石組』のメンバーは昔から裕福だった。だから俺みたいな『農家組』を下に見てたんだ。俺が蔵人募集の話をしたとき、北野の奴はお前に世話になるほど落ちぶれちゃいねぇ≠チて言ったんだ。

その後は女房を街までパートに行かせて、近所から食べ物もらって暮らしてたんだぜ。同じ境遇の誰かの家で、いつも何人かで昼間から集まって、麻雀しながら酒飲んで愚痴を言うだけの毎日を送ってた。俺達が上手くいかないのは、覚羅聡が全部悪いってグダまいてな」