第百九話

ジャリ、ジャリ、と土を踏む音がまた聞こえた。足音は一つではない。志門の鼓動が早くなる。やはりあの女性は他の人を連れてきたんだ……。

ちくしょう、ここで捕まってたまるか。戸が開いたら体当たりして逃げるぞ。そう決めて志門はまた鎌を上にあげた。

コンコン、と納屋の戸を叩く音がした。「まだいる? 開けるよ」と女性の囁く声がする。ガタガタ軋みながら引き戸が開いた。女性はさっきより小さめの、光りの弱い懐中電灯を持っている。柔らかいあかりが納屋の中を照らした。

「良かった、いてくれて。大丈夫。あたしたちは敵じゃないよ。あなた光くんと一緒に来た人だよね?」

顔に直接光りが当たらないように、女性が志門に懐中電灯を向けた。それでも闇に慣れた志門の目に、光りはまぶしく感じられた。志門はとりあえず鎌を下に向ける。女性がまた優しい囁き声で話す。

「あたしは池田茉菜。光くんと一緒に住んでるの。聞いてないかな?」

茉菜が納屋の中に入ってきた。志門は手で光りを遮りながら首を縦に振り、小さな声で答えた。

「はい、聞いてます。光さんは婚約者だって言ってました」

「なんだ、まだ子供じゃないか」

茉菜の後ろから納屋に入ってきた二人の男性のうち、片方の人が呆れたように言った。ここに来たのは三人だけで、他には誰もいないらしい。

「純の奴はホントにこの子を捕まえろと言ったのか? 村の若衆も借り出してるんだろ?」

男性が続けて言う。茉菜は頷くと手をあげてそれ以上の発言を制止した。

「とにかく、蔵に入ろう。こんなとこにたむろしてたら怪しまれるよ」

茉菜の意見に他の二人は素直に従い、四人で外に向かう。志門は納屋から出る前に、握りしめていた鎌の柄を手から放した。思ったよりずっと手が強張っていて、指を開くのに少し時間が掛かった。

茉菜が先頭に立ち、不自然でない程度に周りを見ながら後の三人を促す。志門は二人の男に挟まれる形で歩いた。用事を済ませた納屋から蔵に戻るところ、という雰囲気を出すためにわざとブラブラ歩く。

山の方で、また人の声が聞こえてきた。志門は思わず身を縮めた。左隣にいる男性が志門の背中を励ますようにそっと叩いた。志門の肩より少し上くらいしか身長のない男性だった。ぼんやりした懐中電灯の光りの中で、その人は年配の男の人だと分かった。

茉菜が蔵≠ニ言ったのは、酒を造る酒蔵のようだった。納屋からは少し歩いたが、白い漆喰の壁が暗闇に浮かび上がっているのが見えてくる。四人は瓦屋根の建物の横を通り、出入り口のある玄関側に回った。

白壁の酒蔵はかなり大きかった。正面側には軽トラックが一台と黄色の軽自動車が停まっていた。地面はいつの間にか土からコンクリートに変わっていて、茉菜が立ち止まった場所の前には重そうな木の扉があった。

扉にはわっか型の真鍮の取っ手がついている。志門はアンティークなイメージを持ったが、茉菜が輪を引っ張ると、カチャリと軽い音を立ててあっさり扉が開いた。扉の厚さはかなりのものだったが、ちゃんと手入れがされているのが分かる。

茉菜がサッと中に入り、志門も男性に促されて蔵の中に入った。建物のなかはひんやりしていた。独特の甘酸っぱい香りが志門の鼻をくすぐる。普通の家と違い、扉の中までコンクリートが続いていた。

部屋の前まで直接靴で歩き、靴を脱いで板張りの床に上がる仕組みだ。部屋の襖は開けられていて、灯りがついていた。

「おやっさん、お邪魔しますよ」

茉菜さんが振り返って一言断ってから部屋に上がった。続いて年配の男性が靴を脱いで上がる。「上がりな」と男性が志門に手招きする。どうやらこの男性がおやっさん≠轤オい。

灯りの下で見ると、皺の寄った顔は七十歳前後に見えた。志門が部屋に入ると後ろからもう一人の男の人がついてくる。この人はおやっさんよりかなり若い。多分……四十代後半か。志門は自分の父親くらいの年齢だろうな、と目測をつけた。

部屋は八畳間で、小さなテレビと丸いちゃぶ台が置いてあった。新聞うけや座椅子などもあって、くつろげる部屋になっている。茉菜が部屋の端に重ねてある座布団を床に滑らせて広げた。

「座ってくれや。しゃっちょこばらんでいいぞ」

またもや、おやっさんに促され、志門はちゃぶ台の前の座布団に座った。とりあえずきちんと正座する。

「自己紹介が必要ね。まず君の名前から教えて」

茉菜がお茶っ葉を急須に入れながら言った。ちゃぶ台の近くにはポットの横にお盆に乗った湯呑茶碗が置いてあり、すぐにお茶が入れられる準備がしてあった。お客さん用、というより、おやっさんがいちいち動かなくて済むようにしているのだろう。

上着を脱いだ茉菜は、紺のはっぴ姿をしていた。左の胸元に「鬼壱」という漢字が刺繍されている。下はジーンズだった。光の言う通り、茉菜は豊かな乳房と見事なウエストラインをした色白の女性だった。年は三十を過ぎているはずだが、もっと若く見える。髪の毛をポニーテールにした、可愛らしいひとだった。

「僕は烏川志門です。えーと……今の比丘尼、未祥ちゃんのクラスメイトです。未祥ちゃんと可畏さんを捜しにきた光さんに偶然会って、ここまで連れてきてもらいました」

簡潔に志門は答えた。ここに来るまでに相当なゴタゴタがあったが、今それを悠長に説明してる暇はない。茉菜とおやっさん、もう一人の男性は特に何も言わず、コクリと頷いた。