第百八話

藁の上で脚を抱え、志門は寒さに耐えていた。

陽が暮れて気温が急激に下がった。可畏に買ってもらった新しいブルゾンは、値段が高いもののせいか暖かかったが、それでも足元から忍び寄る冷気には抵抗しきれなかった。

志門は村の外れの古い納屋にいた。納屋のすぐ裏は林で、志門を探す村人の声が遠くから切れ切れに聞こえる。村人は志門が林の中を逃げていると思っているらしい。

実際一度木々の奥まで入ったが、夕暮れが深くなるとともに周りのものが見えなくなった。季節柄、熊などの危険な動物が現れることはないが、一歩先の地面も確認できないとなると何で怪我をするか分からない。

携帯の充電が切れてしまった為、頼りになる灯りがなくなった。Gショックの腕時計はつけていたが、文字盤を確認するだけの光りでは歩くのに役に立たなかった。太陽の残照で少しでも辺りが見えるうちに隠れる場所を探そう。そう決めて村に戻った。

早い判断が良かったのか、志門が納屋に逃げ込んだ時も村人は林の中を捜索していた。納屋の中は古い土の匂いがした。お祖父ちゃん家が建て替えをする前の、藁ぶき屋根の家を思い出す。玄関に入ると土間が広がっていた。あの独特の木と土の匂い。ここはそんな一つ前の時代にいるような錯覚を抱いてしまう。

山の方で呼び合う声が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。もし人間を追跡出来る犬でもいたら厄介だったが、犬の鳴き声は聞こえなかった。匂いを追っていける犬を訓練するのには専門家が必要だと何かで読んだことがある。どうやら村の駐在所程度では、そんな立派な警察犬を飼育してはいなそうだ。

近くに人がいる気配は完全になくなった。外は暗い。自分に周りが見にくいということは、周りからも自分が見えにくいことになる。

志門は外に出る決心をした。今、多聞邸がどんな風に警護されているか分からないが、純はきっと警戒していることだろう。あいつは抜け目がない。この村にいる鬼たちを総動員して警護や探索の役目に当たらせているはずだ。

もう一度あの土塀の内側に行けるだろうか……。

志門は緊張のせいで胸の中心に重い鉛を押し込まれたような息苦しさを感じた。もし鬼や村人が明確な殺意を持って襲ってきたら、抵抗できるか? しかも複数で攻撃してきたら──。

躰道を習っては来たものの、実戦でどこまで通用するか分からない。でも未祥ちゃんが危ない。それに裕生も……。このまま怯えて何もしなかったら、オレは死ぬまで後悔することになる。

志門は藁の上から降りて、納屋の端まで動いた。納屋の中には藁の他に、ゴザの上に積み上げられた大きなザルや、漬物樽がいくつか置いてあった。他にもクワや熊手、草取り用の鎌が壁際に立てかけられている。志門の目は段々暗闇に慣れてきた。何本か置いてある鎌のうちの、大ぶりのものを一本手にした。

ちゃんと手入れがされているようで、錆びないように塗ってある油がヌラリと光るのが夜目にも確認できる。これを本当に人間に突き立てる事態にならないといいけど……と思いながら志門は鎌の柄を握った。

振り返り、出入り口の方に慎重に足を踏み出した時、ジャリ、ジャリ、と土を踏む足音が聞こえた。それはこちらに近づいてきている。懐中電灯の灯りが、納屋の外壁の板からもれて見える。土を踏みしめる音と懐中電灯の光りがどんどん近づいてくる。

志門の背中に冷や汗が流れた。通り過ぎてくれ、と祈った。しかし、神とは得てして切羽詰った祈りに耳を塞ぐ傾向にある。足音はすぐ近くで止まり、ガタッと納屋の引き戸が動いた。

納屋の中に隠れる場所はない。志門は草取り釜を両手で構えた。懐中電灯が志門を照らし出す。眩しくて志門には相手が見えない。ハッと息を飲む音が聞こえた。

「茉菜さーん、そっちに斗瓶(とびん)の予備ありますかー?」

遠くから呼びかける声が納屋まで届いた。志門は目の前の人物が叫ぶと思い、更に身を低くして構える。その人物は懐中電灯を下に向け、「こっちにはなかった! 今戻るから待ってて」と大声で返事をした。

続けて低い声で「もう少しここにいて」と言う。志門は自分の耳を疑った。でもその女性は何事もなかったように納屋から出て、引き戸を元に戻した。足音と光りが、今度は離れていく。

志門はしばらく鎌を持ったまま動けなかった。ここにいて、とあの人は言った。まさか……他の誰かを呼んでくるとか? でもあの女性が助けを呼ぶなら、さっきオレが見えた時点で叫び声をあげているはずだ。

マナ……。マナさん、とあの人は呼ばれていた。どこかで聞いたことのある名前──。志門は記憶を呼び覚まそうと闇の中で目を閉じた。

そうだ、ラブホテル。ホテルの部屋で光さんが言った名前だ。もしやあの人が光さんの婚約者の茉菜さん?

そうかもしれない、と志門は思った。だが、あの人が茉菜さんだったとしても、オレのことを知っているだろうか。光さんから連絡を受けていて村人からオレを庇うように言われている……? 

でも光さんは純と一緒にいて、簡単に自由な行動を取れない可能性が高い。光さんが茉菜さんに電話を掛けることを、あのこすからい純が許すだろうか。

グルグル考えているうちに、外がにぎやかになった。遠くでガヤガヤと人の声が聞こえる。「お疲れさーん」という言葉を呼び交わす声が耳に入った。そのまま段々人の声が減っていく。それは仕事が終わり、みんなが帰宅の為に解散していくような印象だった。

数分後には、辺りにまた静寂が戻った。志門は暗い納屋の中で突っ立っていた。鎌は手に持っていたが、もう構えてはいない。心は焦っているのに、どう動いたらいいのか分からなかった。

あの女性を待つか──それとも逃げるか。