第百七話

しかし純は、すぐににこやかな顔に戻った。自分にとって都合のいい光の祖父に反発するのは得策でないと考えたのだ。

「もちろん、今のは冗談ですよ。どうも光さんは伝説の重要さをまだしっかり理解できてないらしい。いつか分かってくれるといいんですけどね」

純はおおらかそうに笑い、立ち上がった。

「光さん、こっちに比丘尼様を連れてきて。せっかくの料理も食べないみたいだし、こうなったらさっさと恵み≠授けてもらいたいからさ」

光は歯を食いしばり、うめき声を上げたが命令に逆らうことは出来なかった。未祥は光の腕に抱かれて運ばれながら目を閉じた。覚悟を決めていたとはいえ、絶望が体の中に沁みわたっていく。純の携帯がにぎやかな着信音を響かせたのはその時だった。

「はいはい、どうしたの?」と純は電話に出る。しばらく相手の言葉を聞いた後、純の顔色が変わった。「逃がした……?」とつぶやく。純は焦った様子で質問した。

「逃がしたって──それじゃどこに向かったの!?」

また相手が何か説明している。それを聞いて純はチッと舌打ちした。

「もう、あんたたち全然役に立ってないじゃん。それじゃ、急いで村に戻ってきて。どうせ奴はここを目指してくるから、城の周りを見張ってよ」

純はイラついたため息と共に電話を切った。腕を組み、剣呑な顔で光の祖父に視線を投げる。

「壮年組の高川さん達、可畏を逃がしちゃったんだってさ。まぁ多勢に無勢だからすぐ捕まると思うけど。でも……ちょっとやっかいだな」

純は光の腕から降ろされて悄然と立っている未祥を、目を眇めて見つめた。しばらくそうした後、毒々しい笑みを浮かべる。その笑いはゾッとするほど多聞義男に似かよっていた。

「あいつが来てここがバタバタするかもしれないから、先に再生≠フ準備に入ろうか。おじいさん、例の処置を比丘尼様にお願いできるかな。他の人は動かないでね」

老人は静々と純の近くに移動し、着物の懐から何か取り出した。光と未祥はそれを見て息を飲んだ。老人が純に差し出したのは注射器とアンプルの入ったプラスチックケースだった。

「この薬はね、体を楽にする効用があるんだ。僕は女性を力で押さえつけて犯すなんてしたくないんだよ。大丈夫、眠ってる君に暴力を振るうなんてしないからね」

純は注射針をカバーしていたキャップを外し、薬剤入りのアンプルに針を刺した。注射器の中に薬を吸い上げると、液をピュッと出す。未祥は怯えて後ずさった。純が注射器を構えて近づいてくる。

「──いや……」

首を横に振りながら未祥は更に後ろに下がった。

可畏……。可畏がここに向かっている? 
今となっては村中が敵だと分かっていて、それでもここに──あたしの元へ来ようとしている……? 

可畏は諦めていないんだ。そう思ったら、未祥は言われるがまま運命を受け入れようとしていた自分が情けなくなった。

あたしは本当に、可畏に会えないまま消えてなくなろうとしていたの? イヤだと思っているのに、運命だからと諦めるなんてしたくないのに、こんな男に好きなように扱われてもいいと?

ダメだ、と未祥は思った。本気で厭なら戦わなければ。きっと違う。自分から諦めて抵抗することなく運命を受け入れるのと、力の限り戦ってからそうなってしまうのと、例え結果は同じでも何かが違うはずだ。

笑われてもいい、それ見たことかとけなされてもいい。上手くいかなくても、最初から投げ出すより数倍マシだ。

未祥は注射の針を上に向けて持つ純の腕を、手で強く叩いた。注射器が飛んで畳の上に転がる。未祥の突然の抵抗に驚く純に背を向け、未祥は廊下に向かって走り出した。

着物の裾が脚にからまって上手く走れない。長い振袖もバタバタとはためいて邪魔だった。未祥は着物の裾をたくし上げ、大きく足を前に出す。「捕まえろ!」という純の命令が飛んだ。

未祥の腕を掴んだのは、光の祖父だった。一番早く未祥に追いつける天夜叉の光のはずだが、光は全身で命令に逆らっていた。鬼術の心得のある老人は、思ったよりずっと素早かった。

腕を引き戻され体勢を崩した未祥は畳の上に転んでしまった。そこを老人が押さえつける。未祥はもがいた。「離してぇっ」と声を上げる。

「あーあ、ちょっとこぼれちゃったよ」

純が注射器を拾い上げ、中身を確認しながら言った。未祥は仰向けに倒れた状態で脚をバタつかせた。光の祖父が膝を未祥の脚の上に乗せる。両腕も抑えられ、完全に動けなくなった。純が未祥の横に膝をつき、注射器の針を腕に向ける。

「いやーっ!」

未祥は力の限り叫んで激しくもがいた。首を振り、肩を動かし、簡単に針を刺されないように抵抗する。純は未祥の肩に手を置き、畳に押し付けた。そして針を未祥の腕に刺す。

「未祥ぉッ」

光が吼えるように叫んだ。純が腕から針を引き抜く。注射器にはもう、薬剤は残っていなかった。未祥の心臓は激しく脈打っていた。暴れたせいで早くなった鼓動が、直接打ち込まれた薬を一気に体中に巡らせていく。ボヤリと未祥に視界が霞む。涙と薬効で霞んだ視界に、純の猿のような笑顔が映った。

「……か、い……」

未祥のつぶやきは、喉の奥に留まって言葉にならなかった。焦点の合わない目に霞んで見える純の顔と天井が、グルグル回る。意識も体の力も急速に落ちてくる。

未祥! と何度も叫ぶ光の声を聴きながら、暗い闇の中に未祥の意識は消えていった。