第百六話

光はいきなり、立ち上がった。純が止める間もなく、廊下側の障子を開け放つ。廊下には、光の父正高と祖父が正座で控えていた。光は二人に向かって訴えた。

「じいちゃん、今のを聞いただろう? じいちゃんは本当にこんな奴に、村を仕切られていいと思ってるのか? こいつが言ったことは、夢でも目標でもなんでもない。ただの自堕落だ。自分が一番だと思いこんでる、自己愛人格障害者だ。こんな奴に力を持たせてみろ。終いには自分に都合が悪い奴を平気で殺すようになるぞ!」

光の説得は沈黙で迎えられた。祖父は正面を睨み、静かに座っている。やがて厳しい視線を光に向けて口を開いた。

「村の存続の為には、ある程度の犠牲は必要だ。お前はいつも新しいことを始めたがるが、何もかも上手くいくと思うな。言い伝えを変えることと、酒造りをすることとは違う。伝統を無視して失敗したら鬼は消えるんだぞ。

それこそもっと、多くの命が失われるかもしれない。多聞のやり口には今までも振り回されて来とる。村のみんなもそれは承知の上だ。大きなものを支える為には、多少の代償がついてくるんじゃ。心は痛むが、仕方がない」

「──仕方がない? 今ここにいる未祥が、再生によって消えてしまうことが仕方ないだと? 生まれ変わりは未祥の死と同じなんだぞ。これから純の気まぐれで、村人も何をされるか分からない。じいちゃんはそれでも仕方ないと言えるのか?」

「お、おれも子供を殺すって言われたんだ。純が多聞になることに協力しなければ、一歳の息子を襲わせるって。金さえ出せばなんでもする奴は世の中にいるんだよって、純に脅されたんだ」

今まで下を向いて肩を落としていた拓己が、ブルブル震えながら言った。着慣れない着物の袴を握り締め、目に涙を滲ませながら続ける。

「おれは羅衆の筆頭なんかどうでもいい。毎日酒造りの仕事をして、家族の待つ家に帰れれば良かったのに……なんで……!」

胸の中を吐き出した拓己は、頭を抱えて泣いた。光は愕然として純を見た。純はすでに、人を騙すことも脅すことも平気でやっている。このままではいつか確実に誰かを傷つけ、最悪の場合殺すだろう。純は驚愕と焦燥感の混じった光の瞳を、不敵な笑顔で受け止めた。

「大の男がみっともなく泣くんじゃない。拓己、お前は羅衆の当主なんだ。小さなことにこだわらず、大局を見んといかん」

光の祖父は鋭い目つきで拓己を見て言う。拓己は抱えた頭を更に下に下げ、むせび声をあげだ。

「──何がみっともないんだ……?」

光は仁王立ちになり、手を握り締めて祖父を見る。祖父の目の中には、何を言っても受け入れない、自分は村を守るだけだという信念が見えた。それでも、光は黙ることが出来なかった。

「拓己の何がみっともないんだ? 自分の子供を殺すと脅されたことの、何が小さいんだ。村を守るだの大局をみるだの大層なことを建前にして、あんたら老人たちがやってることは昔の生活にしがみついてるだけじゃないか。

時代が進んでも愚かな伝説があっても、変化を受け入れず新しいことに触れようとしない。昔は良かったか? 比丘尼が陰でどんなに苦しんでいても、見ないようにしていれば幸せに生きられたのか? 誰かの犠牲の上に成り立った生活を、そんなに守りたいのか!? 

大きなものしか目に入らず、弱者の痛みに背を向ける。そんなのは数字でしか国民を管理しようとしない、腐った政治家どもと同じ発想でしかないんだよ!」

光の怒りの叫びが、部屋中に響き渡る。父の正高は隣の父親の様子を伺うように見ている。光の祖父は眉間に深いしわを寄せ、目を閉じていた。光は肩で息をしながらそんな祖父を見下ろしている。やがて老人は重い口を開いた。

「光。お前にはまだちゃんとした家族がいない。お前にも自分の子が産まれれば分かる。比丘尼様が多聞家におさまってくれれば我が子が助かると思えば、お前もわしと同じ答えにたどり着くはずだ」

光は顔をこわばらせ、意志を変えない祖父を見た。「そうそう、やっぱり人間、ひろーい心を持たなくちゃ」と純が横やりを入れる。祖父は黙っていた。それは純を肯定するという意思の表れに思われた。

もはや何を言っても通じない。光は振り返り、ふわりと空に浮く。そのまま豪華な食事が盛り付けられた座卓を飛び越え、未祥の隣に舞い降りた。

「未祥、行くぞ」

光は未祥を立ち上がらせ、腕に抱きあげる。そして隣の部屋へ通じる襖を目指して一息に飛んだ。ほとんど体当たりしながら襖を開ける。隣の部屋を飛び越え、また襖を開けた。その先は廊下だった。

先代の比丘尼が幽閉されていた部屋は城の最奥にある。廊下に出たからといってすぐに窓は見えなかった。光は一番近い窓に向かおうと廊下を飛ぼうとした。そこで「光、止まれ」と純が言った。

光はいきなり、動けなくなった。未祥を両腕に抱えたまま体が固まる。クッと光が息を吐いた。

「ああもう、結果は分かってるのにどうして逆らうかなぁ。光さんも頭悪いね。あんまり勝手やると夜衆の筆頭からはずしちゃうよ」

「それはやめて下され」

純が忌々しげに言った言葉に、老人が反論した。光の祖父は、立ち上がって純を見ていた。

「光は我ら夜衆の当主です。天夜叉の血を引きついだ大切な跡取りじゃ。わしらはあんた様のいう事は聞きましょう。宿命ですからな。でも、ずっと多聞にお仕えしてきた夜衆を、ないがしろにだけはしないでいただきたい」

純は口を尖らせ、老人を見る。ふてくされた表情は要求が通らなくてすねている子供の様だった。