第百四話

「わあ、綺麗だね」

未祥の着物を着つけた純が、数歩離れてしみじみ見ながら言った。未祥は口をつぐみ、何も言わずに立っていた。

未祥を舐めるように眺めながら純が周りを歩く。志門に蹴られたせいで純の頬には湿布が張られていたが、嬉しさを抑えきれない様子で興奮した笑みを顔に張り付かせている。

「僕の祖母は日舞の先生なんだ。僕は着物の着せ方も小さい頃から教わってるから、簡単に着崩れることはないよ。この帯の結び方はふくら雀結びって言うんだよ。可愛らしいだろう? 着物の柄は牡丹だからちょっと季節的に合わないけど、あでやかで君には良く似合うよ」

純は未祥の顎の下を指でなぞる。未祥は息を止めて、前に見える襖の絵をじっと見つめた。多聞家の奥──代々、比丘尼が閉じ込められてきた部屋。花鳥の絵がしたためられたこの和室は、夢の中の少女がいた場所と同じだと分かった。

「さ、食事の用意が出来たよ。凄いごちそうだから、ゆっくり味わってね」

君にとっては、最後の食事だからね──未祥には純があえて口に出さない、言葉の続きが分かった。純はニッコリ笑って未祥に手を差し出す。未祥は前を向いたまま、動かなかった。そんな未祥を冷めた微笑で見返して、純は言った。

「もちろん、この手を取ってくれるよね? そうしないと、可畏くんはどうなるのかな? 君のお友達の裕生ちゃんも……分かるよね? 僕にふざけた真似をした烏川くんも、村人が山の中を捜索してるからそろそろ捕まるだろうし。僕のいう事には逆らわない方がいい。その方が何もかもスムーズにいくからね」

未祥は目を閉じて歯を食いしばった。純が言うには、可畏のことは既に拘束しているということだった。未祥がいう事を聞かなければ可畏の身に何が起こるか分からない、と。裕生は今、多聞家の一室に寝かされているらしい。

「女の子を殺しはしないよ」と純はいう。

「ただ、君が僕に逆らったら、彼女の体は何人もの男が使うことになる。僕には知り合いがいっぱいいるんだよ。意識のない子でもやっちゃうことの出来る酷い奴とか、ヤバい性病持ってる危険な奴とかね」

裕生ちゃん……! 
未祥は心の中で呼びかける。こんなところまで付いてきてくれたのに、意識を失うような酷い目に遭わせてごめんね。この男は裕生ちゃんをもっと辛い目に遭わせようとしてる。

山に逃げた志門くんのことも、捕まえてから何をするか分からない。お願い、逃げて。神様どうか、二人を無事ご両親の元へ返してあげて──!

未祥は純の手に自分の手を重ねた。純が満足そうに華やかな微笑みを浮かべる。

「物分かりがいいね。さすが比丘尼様」

「裕生ちゃんと志門くんは家に帰して」

未祥は視線を襖から純に移して言った。涙が滲んだ目を、毅然と純に向ける。純の頬がほんの少しだけ、ピクリと動いた。

「二人は村のことにまったく関係がない。危害を加える必要などないでしょう」

「でもあの二人は、刀利村の伝説を全部聞いたんだろう? それなら、まったく関係がないとは思わないけどね」

「記憶なら、鬼に噛ませて暗示で消せばいいでしょう。あなた、自分でもそう言っていたわよね?」

未祥の思わぬ強い視線に、純の頬がまた引きつる。でもそんな自分を恥じたのか、小馬鹿にしたような笑いを未祥に向けた。

「そりゃ、最初はその予定だったけどね。あの二人は君に云う事をきかせる為の、大切な人質だって気付いたんだよ。利用するだけ利用させてもらおうと思ったまでさ」

「そんな下劣で浅はかな手段しか思い浮かばないなんて、あなたはやっぱり多聞の血を引いてるのね。人質なら可畏だけで十分でしょう。あの二人に何かあったら、親も黙っていないし警察も動くわ。余計な目が村に入ることの方が、よっぽど危険なんじゃないかしら。それに──」

未祥は怜悧な眼で、純を見返す。純が思わず言葉を失うほどの強い意志が、その中にあった。ずっと閉じ込められてきた過去の比丘尼達には見られなかった、明確な自己──

「それにもしあの二人に何かしたら、私は恵み≠与えることを拒否します。あなたは恵み≠ェ欲しいのでしょう? 私を再生させようとしていることは分かってます。でも次の比丘尼が確実に恵み≠フ力を使えるようになるには、十六年間待たなければならないわね。

それを待つ間の資金をあなたは得ようとしてるはず。多聞の財産は、この十七年の間にかなり減ってしまったのではないの? 恵み≠ェ欲しいなら、村に関係のない人間を巻き込むことはやめなさい。

もし少しでも誰かを傷つけるようなことをしたら、私があなたに富を与えることはないわ。あなたは十六年間、このバカげた土地と建物を維持するために、財産をすり減らしながら地道に働かなければならなくなるのよ」

未祥の視線は揺るぐことはなかった。純は完全に気おされた。多聞の兄から聞かされた今までの比丘尼の印象と未祥は、かなり違う。ただやわやわと多聞を受け入れ、世にうとく、泣いてばかりいる少女の面影が未祥からは感じられない。

なよやかな見た目はしているものの、そこには意志と知性が秘められている。未祥の凛とした目線に耐え切れず、純はひととき視線をさまよわせた。

こんな……こんな女にやり込められるなんて有り得ない。これまでの長い歴史の中で、頭の足りない多聞の猿どもですら、比丘尼を思う通りに操ってきたではないか。

僕は少なくとも、あの猿兄貴より数倍頭が回る。実際、比丘尼や光にも疑われることなく、村まで連れてくることが出来たのだ。それにこの女の言う通り、まだ可畏という手札がある。

北野さん達壮年組は可畏を始末出来ただろうか。もう可畏がこの世にいなくても、比丘尼にはそのことを知らせずに脅しの材料として使わせてもらおう……。