第百一話

志門も未祥と同じくらい混乱していた。はっきり分かるのは、未祥ちゃんはかなりヤバい状況におかれてしまっている、という事だ。

しかも今いるメンバーの中で未祥ちゃんの味方はオレだけだ。光さんは純が戟を持っている限り、あいつの命令には逆らえない。

どうする? たった一人で、鬼と純を相手に戦えるのか?

「裕生? ああ、あの女子高生ね。拓己さん、ちゃんと言われたとおりに処理してくれた?」

純から急に名前を呼ばれて、拓己はビクッと震えた。おどおどした様子で純と乗ってきた車を交互に見る。

「あ……あの女の子は、『光さんから頼まれて代わりに迎えに来た』って伝えてから、オレの車に乗せたよ。それで言われたとおり、睡眠薬入りのジュースを飲ませた。それから戟を取ったんだ」

「うん、それで? ちゃんと血を吸って何もかも忘れて家に帰るように暗示をかけた?」

「……い、いやそれが……眠ってる子に暗示がかかるかどうか分からなかったから……その──まだ車にいるんだ」

純はピクリと頬を震わせると、険を含んだ目で拓己を見た。

「じゃあ、連れてきたのか? 全く、なんでそんなことするんだ。暗示を掛けたら道端にでも置いて来いって言っただろ? 目が覚めれば自分で帰るよ」

「で……でも、外は寒いし目が覚めるのが遅れたら、凍死するかもしれないじゃないか。そんな可哀相な事出来ないよ」

「なに甘いこと言ってんの? この村の恵み≠フ秘密が外部に漏れたらどうなるかくらい分かるでしょ? 余計な心配しないで、言われたとおり置いて来れば良かったんだよ。なんだったら凍死してくれた方が好都合だったのに」

志門の動きは素早かった。一瞬腰をかがめると、体をひねり足を繰り出す。その足は見事に純の右頬にヒットした。ガッという音と共に、純の体が吹っ飛ばされる。

純は玉砂利の上に勢いよく尻餅をついた。ガシャッと音を立てて丸い石が散る。志門は純が気絶してくれればいい、と思ったが、生憎すぐに顔を上げた。唇の端から血を流し、歯を食いしばって志門を睨む。

顔立ちは全然違うのに、その目は多聞親子を思い出させた。何で今頃──と志門は思う。羅威のペンションでは見抜けなかった悪意≠ェこの目にはある。先祖の伊助から始まった、村の呪いに囚われた醜悪な欲≠ェ。

志門は咄嗟に、未祥の腕をつかんで走り出した。拓己が乗ってきた車に走る。

「あいつらを捕えろ!」という純の命令が飛ぶ。志門は未祥の腕を引き、全力で走った。拓己という人は車のキーを抜いただろうか。オレに運転が出来るか? ブレーキを踏み、エンジンをかけ、サイドブレーキを下ろしてアクセルを踏む……。

「いゃあぁっ」

叫び声と共に、未祥の腕の感触が手から消えた。振り向くと未祥が拓己に捕まっていた。拓己は最初の時と同じように、悲しそうな顔をしていた。青ざめた顔で未祥の腕をつかみ、騒ぐ口元を片手で覆う。

「未祥ちゃん!」

志門は拓己に突進した。でも拓己の前に光が立ちふさがる。光は志門に向かって両腕を伸ばした。その顔は泣いていた。自分では決してやりたくないのに、どうしても体が動いてしまうのが厭でたまらないという顔だ。

志門はトン、と軽く後ろに下がる。そこに光の父正高が現れた。正高も泣きそうな顔をしていた。正高の後ろには一人やる気に満ちた光の祖父が身構えている。

志門のこめかみを冷や汗が落ちる。屈強な鬼が三人。一人は老人だが油断は出来ない。裕生……裕生をどうする? このまま捕まって、チャンスを待つか──

「志門、逃げろ」

光がジリジリと志門ににじり寄りながら言った。涙を流して、絞り出すような声で。

「裕生は俺が必ず逃がす。後ろの土塀を超えろ。裏の山へ入れ。迷うなよ」

「光さん、オレ……」

「行け! 早くっ」

志門は光に背を向け、ダッシュした。塀を挟んで生い茂る常緑樹が見える場所を目指す。後ろから追いかけてくる足音が、徐々に遠ざかる。陸上部にも誘われたことのある志門の脚に鬼たちは追いつけない。

多分、老人以外は全力を出してないのだろう。天夜叉で宙を飛べるはずの光は、絶対である多聞の命令に死に物狂いで逆らっている。志門はそれが有難かった。

火事場の馬鹿力のせいもあろうが、あっという間に土塀に着いた。志門は両手を土塀の上部にかけ、懸垂の要領でグィッと体を持ち上げた。足で壁面を蹴って土塀の上に乗る。

一瞬だけ振り向くと、三人の鬼がこちらに向かって走ってくるのが見えた。老人は袴に脚がもつれて上手く走れないようだ。涙にぬれた光の目を一度しっかり見据えて、志門は土塀を乗り越えた。

下は斜めになった石垣だった。鍛え抜かれた身軽さで、志門は石垣を駆け下りる。石垣の終わりは下草だった。枯れた草がクッションとなって、足を取られて前のめりになる。

何とか体勢を整え、柔らかい枯草の上を走る。こんな時なのに、子供の頃を思い出した。原っぱの草を踏みしだいた記憶が鮮やかによみがえる。草の上を走る感覚を取り戻した体は、どんどん勢いが増していく。数秒で志門は目指す木々の近くまで来た。

鬼たちが土塀を乗り越える頃には、志門の姿は森の奥に消えていた。