第九十三話

「それでいいなら、早速村へ行こうよ。ねぇ、比丘尼様はどこにいるの? 僕、早く会いたいな」

純は期待を込めた目で光に迫った。快活な笑顔を浮かべる純は人懐こく、裏表があるように見えない。志門は自分が感じた厭な印象は、思い違いかもしれないと思った。

可畏が光を見ると、光は短く頷いた。可畏は部屋のドアまで移動し、開けてから未祥を呼ぶ。

未祥は恐る恐るドアから顔を出した。さっきまで部屋のドアホンを使って玄関での話し合いは聞いていたので、話の内容はわかる。とりあえず井田川純に会わなければ始まらない。未祥は可畏に並んで、玄関の三人の前に移動した。

純は近づいてくる未祥を呆けた顔で見ていた。まつ毛の長い、女の子のような目を見開いて口を開けて見つめている。「……ま」と純がつぶやいた。志門は純が何かしゃべったのは分かったが、どんな言葉だったのかは分からなかった。

純はしばし無言で未祥を見続けた。未祥はそんな風に一心に見られていることに、急に不安を覚えた。思わず隣にいる可畏に手を伸ばし、背中の服をつかむ。可畏は未祥の肩に腕を回した。

「どうした、未祥があんまりベッピンさんなんで一目ぼれでもしたのか?」

食い入るように未祥を見続ける純に、光がからかう声を掛けた。純はハッと息を吸うと、瞬きをして光を見る。まるで今まで夢を見ていたような顔だった。

「あは……、なんかあんまり綺麗でびっくりしちゃって。僕みたいな庶民には、比丘尼様は神様みたいな存在だからさ。それに──ほんとに天女みたい」

純は更にジロジロと未祥を眺めまわした。未祥はドキドキする胸に手を当て、可畏を見上げる。可畏はほんの少し前に出て、未祥を自分の後ろに隠すようにした。

純はそんな可畏を見て、口を軽くへの字に曲げた。明らかに気に食わなそうな表情だった。

「なぁんか、そこにいる烏川くんじゃなくて羅威くんのお兄さんが比丘尼様の恋人みたいだね。えーと……可畏さん、だっけ?」

「その通りだ。未祥の恋人は志門じゃない。可畏だ」

光に言われ、純は一瞬目を開くと今度は訝るように可畏を見た。でもそれもつかの間の事で、すぐに顔に笑みが戻る。

「そうなんだ。羅衆筆頭が比丘尼様の恋人ね……。鬼が夫≠ゥ。どうやら可畏さんはお父さんの遺志を継いじゃったみたいだね」

純は今まで通り微笑を浮かべた人好きのする顔で話していたが、内容は好意的には聞こえなかった。志門はまた、あの厭な感覚が湧きあがるのを感じた。

でも──と志門は思う。もしこの井田川純に明確な悪意≠ェあるとしたら、自分にはそれが分かるはずだ。可畏さんたちと一緒にいるせいかオレの感覚は鋭くなっている。それなのにこの若者からは敵意も害意も感じられない。

志門はもっと強く、純に意識を集中してみた。

……感じ取れない。神経に膜が張ったような感覚──。振動。振動が邪魔をする。さっき感じた羅威の気配がにわかに強くなる。

「二人はずっと支え合って生きて来たんだ。当然だろう。実際可畏の親父があの多聞から比丘尼を引き離したのは間違いじゃなかったと俺は思う。村のやつらは色々文句もあるだろうがな。どちらにしても可畏と未祥が責めを負う必要はないはずだ」

光は穏やかに、年若く思慮に欠けた相手を諭すように言った。純は光を無表情で見た後、不意に笑顔を取り戻した。

「ほんとだね、二人があんまりお似合いなんで妬けちゃった」とほがらかに返す。

「失礼しました。美しい比丘尼様、どうか僕と共に刀利村にいらしてください。村ではあなたの為に祝宴の用意をしております」

気取った様子でお腹に手を当て、純が優雅にお辞儀をする。真剣さとユーモアを交えた言い方も仕草も、場を盛り上げ慣れている者という雰囲気を醸し出していた。志門は、この人女性にモテるだろうな、と思った。

「おいおい、何も今すぐ村に行かなくてもいいだろう? 俺はこれから志門たちを地元まで送って行かなきゃならんしな。帰ってくるのは……夜になるな。それともお前たちだけ先に行ってるか? 村に入るだけなら俺はいなくても大丈夫だろうし」

光が言うと、純は口をとがらせて不満を表す。

「村ではごちそうの用意をしちゃってるんだよ。比丘尼様には着物を着てもらうし、準備に時間掛かるから出来れば今すぐ来てもらいたいんだ。それに光さんがいなかったら戟を神棚にあげるのは誰がやるのさ。何しろ羅衆筆頭が比丘尼様の恋人だから、他に人がいないんだよ?」

「しかし志門たちは明日から学校もあるし……」

「隣町の駅まで送って、電車で帰ってもらえばいいんじゃない? 新幹線でも使えばそんなに時間掛からずに帰れるだろ。村では老人たちが、比丘尼様の登場を今か今かと待ちわびてるんだ。あんまり心臓に負担を掛けるとお迎えが来ちゃうよ」

「あのう……」

会話に割り込んで声を掛けたのは裕生だった。部屋のドアから出たところで、軽く右手を挙げている。光が「どうした?」と訊いた。

「あたし、出来れば未祥と一緒に刀利村に行きたいです。可畏さんと離れなきゃならないなら、未祥は不安だと思うんです」

裕生が未祥を見ると、未祥は嬉しさで目を輝かせて見返した。大きな目には涙が光っている。すかさず、志門が裕生のあとに続いた。

「それならオレも一緒に行きます。邪魔かもしれないけど、どうか刀利の伝説を見届けさせてください」

十代半ばの若い二人の意志は、損得勘定がない分、容赦がないほど真っ直ぐだった。どうか認めて欲しい、という真剣な瞳を向けられて、光は困った顔で頭を掻いた。