第八十九話

「もしもし、親父か?」

「ああ、俺だ」

「どうしたんだ? 刀利で何が起こってる?」

「それがなぁ、ご老体達が張り切り出しちまって困ってんだ。ところで確認するが、羅威は──死んだんだろう?」

「ああ、殺されたんだ、多聞の息子に」

「そうか……残念だな。なかなか見どころのある奴だったんだけどな……」

夜衆の前当主は、しばし声を詰まらせた。光は気が逸ったが、父が羅威を悼む時間を邪魔するのはやめた。やがて父の声がまた耳元で響く。

「詳しい話はあとで聞く。それで、多聞の息子は何で死んだ?」

「そうだな……。まぁ、事故みたいなもんだ。羅威を刺して逃げようとしたんで、俺が縛り上げたら死んじまった」

「そりゃあ、天罰だ。あんな奴はいない方が世の為人の為になる。でもなぁ……じいさんはそう思わんかったらしいんだ。古い人間はしきたりを重んじる。伝統に従わないと、とんでもない厄が村に落ちると信じて疑わんのだ。

今は村のみんなで比丘尼を迎える準備をしてるぞ。俺は止めたんだが、ものすごい剣幕で叱られた。お前は分かっていない、村には破ってはいけない決まりごとがあるんだって言ってな。

血圧が上がって、じいさん自身が倒れちまうんじゃないかと思うくらい凄い勢いで言うもんで、今は成り行きを見守ることしか出来ないんだ。それで……お前は今、いるのか? 一緒に」

恐る恐る、という感じで父から問いかけられた光は、それが何を指しているのかすぐに分かった。光はため息をついた。親父はじいさんより伝統にこだわってはいないが、それでも比丘尼は神仏に近い存在なのだ。

比丘尼が外を歩き回るなど、親父にとっては恐れ多いことなのだろう。これがじいさんの世代ともなると──有ってはならない事になる。

「ああ、いるよ。可畏と一緒にちゃんとここにいる。言っておくが、未祥は普通の女の子だ。特別な存在じゃない。メシも食うし、便所も使うし、好きな男とベッタリしたい普通の女子高生だ。親父も会えば分かるよ」

「好きな男だと? 誰なんだ、それは」

「可畏だよ。二人はずっと一緒に生きてきたんだ。何も不思議はないだろう」

「不思議はないってお前……。そうだ、戟はどうした? 比丘尼は戟を持つものとしか結ばれないはずだぞ」

「その戟も可畏が持っている。現在多聞≠ヘ可畏なんだ。それに二人は愛し合っている。やっと比丘尼は、愛する男を見つけたんだよ」

「なんだと──それじゃあ、伝説が完成したということか?」

「事実上、そういうことになるな。でもそれがどうした? 何か不都合があるのか?」

「不都合どころの話じゃない。まさにじいさんたちが恐れているのはそれなんだ。伝説が完成したら俺たちはどうなる? 今更天に行くのか? 

比丘尼が愛する男を見つけてしまったら自分たちに何が起こるか分からない。だから比丘尼には、多聞家の奥深くにいてもらわなきゃならない。村の存続の為には古い伝統を守らなくてはならん。そう信じ込んでる年寄りが、村には大勢いるんだぞ」

光は強い憤りのあまり、言葉が出なかった。確かに光も伝説が完成した暁には、自分たち鬼は存在できなくなると思った。だからと言って、またあの残酷な歴史を繰り返すというのか? 

結局のところ保守派の村人たちは、多聞が存在し、比丘尼が恵み≠与えてくれれば、それで問題はないのだ。その狂ったバランスが村に保たれていればこそ、己の安全は保障される。

今になって比丘尼に愛する男が出来てしまい、自分たち鬼が見知らぬ天に上るのも、天から拒絶され消えてなくなるのも、どちらも恐ろしい。それなら何もなかったフリをして、すべてを元にもどせばいい。

「じゃあ親父は未祥を座敷に閉じ込るつもりか? てめえ可愛さに、また比丘尼に犠牲になれと?」

可畏が蒼白になって未祥を抱きよせた。未祥も同じくらい白い顔で可畏にしがみつく。

「俺はそこまでしたくはない。でも伝説の完成となると、まさに未知だ。俺たちの運命の予測がつかん。可畏と比丘尼が村に入ったら、俺たち鬼は消えてなくなるかもしれん。

俺はそれでかまわんが、若いお前たちにまでその運命が待っていると思うとゾッとする。お前はいいのか? 婚約者の茉菜さんを、置いていけるのか?」

光は初めて、背筋が寒くなった。明るくてほがらかな茉菜の顔が脳裏に浮かぶ。茉菜は元夫に酷いDVを受けて、心身ともに傷ついた状態で村に来た。長い調停の末、夫と別れることが出来、都会の喧騒から離れて山深い村に酒造りの見学に来たのだ。

茉菜は村で酒造りをしたいと言って住みつき、その後光が結婚を申し込んだ時、あたしが相手じゃ光くんが可哀想だ、と笑って言った。二年以上かけて口説き落として、やっと婚約まで持ち込んだ。

幸せにしたいと思った。殴られるかもしれないと思いながら暮らすような生活じゃなく、本当の幸せを感じさせてやりたい。お互い思いやって生きていけると思った初めての相手──。

俺がいなくなったら、また茉菜は悲しい思いをすることになる……。

「……それなら……可畏と未祥が村に入らなければ……」

「そしてまた逃亡生活を続けるのか? 比丘尼は年を取らず、鬼は遺体を残さない。どこにも落ち着くことが出来ないまま何十年も生きるのか? 刀利は鬼と比丘尼にとって、なくてはならない土地なんだ。

鬼が死んでも、刀利にいれば代々続く医者の一家が死亡診断書を書いてくれる。村役場でも詮索なしで死亡届を受け付けてくれるし、焼き場でも空の棺桶を焼いてくれるんだ。

ここでなら鬼にとって全てが──安定する。多分、比丘尼と可畏が刀利にいられる方法が、何かあるはずだ。とりあえず住所を教えてくれ。今からそこに行くから」