第八十七話

「とりあえず今回は帰って、今度の土日でまた来ればいい。夕方には向こうに着きたいから二時頃にはここを出よう」

光の提案には納得せざるを得なかった。現在の時刻は午前十一時。あと三時間ほどで帰路につかなければならない。志門と裕生は渋々ながらも承諾し、残りの三時間を有効に使うことを考えた。

「それじゃあ、羅威が割ったガラス窓を片づけるのを手伝ってくれると助かる。最後まで色々やらせて悪いけど」

可畏が申し訳なさそうに言うと、志門と裕生は快く頷いた。裕生が物置小屋から軍手を見つけて持ってくる。光も一緒に四人で部屋の中と、窓の外側に散らばったガラスを集めた。

未祥と楓は、らいらの様子を見ながら昼食の準備をしている。食欲も湧かないくらいつらい気持ちが続いたが、食べなければ倒れてしまうし、未祥も楓も料理をしていた方が落ち着く性格だった。

「ガラスを入れ直さなきゃならんな。ホントは羅威の部屋に楓さんとらいらを寝かせてやりたいが、今日中にガラスを入れるのは無理だろうな。まず、ガラスを頼める業者を探すか」

ガラスの破片を綺麗に取り除き、掃除機をかけた部屋を見て光が言った。「オレ達は窓に張るビニールとガムテープを探してきます」と志門が言って裕生と一緒に物置小屋に行った。

可畏と光は建物の施工業者が分かる資料か職業別電話帳はないかと、羅威の部屋にある机を調べることにした。

可畏は机の引き出しを開けて、俺は昨日もこうして机を探ったな、と思い出す。父の机で日記を探したのが昨日で、羅威が窓ガラスを割ったのはまだ数時間前だ。それなのに羅威はもう、いない。どこか悪い夢をみているような気分で、可畏は机の引き出しを開けていった。

それを見つけたのは、三番目の引き出しだった。引き出しの取っ手を引っ張って開けた途端見えたのは、封筒に書かれたつたない文字だった。「しばやま らい さま」と平仮名で宛名が書いてある。その文字の横には大人の字で住所が書いてあった。

可畏は震える手でその封筒を取り出した。この手紙は──俺が羅威に送ったものだ。返事がもらえないと分かっていて書いた手紙……。引き出しの中には他にも封筒が入っていた。可畏はそれをかき集めて机の上に全部出した。

「お、書類を見つけたか? ──可畏……?」

光は可畏が机の上に手紙を並べていくのを見て、怪訝な声を上げた。可畏は手紙を一つ一つ確認しながら机に置いた。手紙の宛名は「柴山羅威様」が十一通。そして「覚羅可畏様」が十一通あった。

「──これは、子供の書いたものだな。お前たち文通していたのか?」

「いや、違う。羅威は俺達の住所を知らなかった。だから出せなかったんだ。羅威のやつ……俺の送った手紙に返事を書いてくれてたのか……」

胸の高鳴りで上手く動かない指で、可畏は羅威からの手紙を封筒から出した。住所の書かれていない手紙──。幼い子供の平仮名で、それでも便箋には丁寧に文字がつづられていた。

『おにいちゃんへ。てがみありがとう。ぼくはしゅじゅつをしました。ちゅうしゃをたくさんしました。むねをきったから、いたかったよ。でもおにいちゃんからてがみがきて、げんきがでました。どうしてじゅうしょをかいてくれないの? おにいちゃんにあいたいな』

可畏は次々に手紙を開けていった。手紙の字は、段々漢字が混ざるようになり、文章も長く書けるようになっていった。光は後ろから黙って一緒に手紙を見る。

『兄さん。うんどう会で一っとうを取ったんだね。すごいね。ぼくは走るのがおそくて、いつもビリです。やせっぽちだから友だちからもときどき、ばかにされます。くやしいです。だからべんきょうはがんばってます。テストは全部、九十点いじょう取ってるよ。

兄さんはべんきょうもできるんだね。いっしょの学校だったら、友だちに兄さんを自まんできるのにな。ぼくは野さいがきらいだから、元気になれないのかな。今でもブロッコリーはにが手です。小さいころ兄さんにむりにおしつけて、ごめんね。また手紙書いてね。ぼくも書きます』

羅威の手紙には、可畏の書いたことへの返事がちゃんと書かれていた。可畏が書いた内容は、相手が本当に読んでくれるのか分からないという思いで、日記のようにあった出来事を綴っただけだった気がする。

羅威は可畏の書いた文のひとつひとつに、返事をしたためていた。読むうちに、たまらず可畏の目から涙が落ちる。光も隣で、可畏の肩に手を置いて泣いていた。一言だけ「あいつ……」と言ったきり、下唇を噛んで嗚咽を殺す。

志門と裕生がビニールとガムテープを持って戻ってきて見たのは、机の上に両手を置いて下を向く可畏の肩に、光が腕を回している光景だった。

可畏は最後に開いた手紙の上に、次々と落ちる自分の涙の音を聞いていた。鉛筆で書かれた羅威の字。可畏が小学五年生の時、羅威に宛てて出した最後の手紙への返事。

「──羅威……!」と低く響いた可畏の声を、志門と裕生は痛々しい思いで聞いた。光は腕を目に当てて涙を拭いている。

可畏は羅威の文字に指を這わせた。母のお気に入りだと思い込んでいた弟の字。時には恨みさえ抱いた羅威の字は、可畏の心に新たな痛みを招いた。

父の後悔が今になって身に染みる。
兄弟を引き離して申し訳ない、と書き残した父の気持ちが……。

羅威の手紙を額に押し当て、可畏は声を出さずに泣いた。小学生の弟が書いた、自分宛ての最後の言葉を胸に刻みつけて。

『兄さん。手紙読んだよ。兄さんは学級委員になったんだね。ぼくはみんなから嫌われてるから、学級委員に選ばれたことはないよ。兄さんが一緒にいてくれたら、ぼくは強くなれる気がします。

お父さんはどうして、ぼくを置いて行ったのかな。ぼくの体が弱いから、お母さんといた方がいいと思ったのかな。でもお母さんはぼくに、優しい時と優しくない時があるよ。

兄さんと一緒に、自転車に乗りたいな。ぼくはすぐに息が苦しくなるから、友達はぼくをおいて先に行ってしまうんだ。

兄さんなら、待っていてくれるよね。兄さんはぼくを、嫌いにならないでね。ぼくと兄さんはふた子だから、きっと仲良くできるよね。

いつか会えたら、キャッチボールしようね。サッカーもしようね。勉強ならぼくは負けないよ。兄さんとお父さんに、会いたいです。

今度こそいい子になるから、会いたいです』