第八十五話

幼子は眠っている。

口の周りに付いた血は、濡らしたガーゼで拭い取られた。おむつも手早く取り替えられ、母親が優しく揺らしながら抱いているとすぐに寝てしまった。

柵のついたベビーベッドに楓がそっとおろしても、ぐずりもせずにらいらは眠り続ける。小さな顔を横に向け、両手を曲げたバンザイの形にして眠るらいらは、安らかで満足しているように見えた。

ペンションにはベビーベッドがきちんと用意されていた。二階の一部屋にあったベッドを光と志門が一階まで運んできていた。

「楓さん、そろそろかもしれない。こっちに来といてくれ」

元々鼻にかかった光の声は、止まらない涙のせいで風邪をひいたような鼻声になっていた。光に言われ、楓は頷いた。小さな布団の中で眠る娘の胸をそっと叩いてからベッドを離れる。光と同じように涙が止まらない。それでも母親である楓は、乳児の世話を手を抜くことなくやり遂げた。

楓は震えそうになる手をギュッと握ってみんなの所へ行った。絨毯の上に横たわる羅威の周りに、五人が集まっている。部屋の中に羅威を運んだ可畏は、弟の顔のすぐ横に正座していた。その反対側に楓が座る。

可畏が手を伸ばし、羅威の額に乗せた。目を閉じた羅威は眠っているようだった。血で汚れた首筋はタオルで拭いたが、完全に綺麗になったとは言えなかった。本当は全身を洗ってやりたい。でも羅威には、霧散の時間が迫っていた。

光曰く、老衰で死んだ鬼は通常一日程度遺体を残したあと霧散するが、事故などで大量に血液が失われて死んだ鬼の体は、一時間程度で消えてなくなってしまうそうだ。

可畏は羅威の髪の毛を台所で探し出したタコ紐で二房縛り、切り取った。自分と全く同じ色をした小さな髪の束。こうして切ってしまえば霧散せずに済むと光が言うので、手元に残すことに決めた。一つは自分、もう一つは楓とらいらの分だ。

「羅威、揃ったよ。お前の家族が」

もう聞こえない弟に可畏は話しかけた。そして目の前に座る楓に微笑みかける。楓は可畏の視線を受け止め、頷いた。可畏の隣に座る未祥が溜まらず嗚咽を上げる。

楓は両手を伸ばすと、羅威の頬を包んだ。そのまま顔を近づけて、羅威に話しかける。

「……羅威くん、あたし羅威くんと一緒にいられて幸せだった。施設で育って両親のいないあたしと、普通に付き合ってくれたの、羅威くんだけだった。羅威くんいつか、あたしに言ったよね。俺は母さんに愛されてるのか、時々分からなくなるって。あたし母親になったから分かる。お母さんは羅威くんの事、愛してたよ。上手に愛が表現できなかっただけで、絶対、愛していたよ」

羅威の頬を優しくさすりながら、楓は語りかけた。

その言葉を聞いて可畏は、己の胸の奥にあった黒いかたまりが、ゆるりとほどけて消えていくのが分かった。

楓の言葉は、真実かもしれない。違うかもしれない。でも誰もが輝くばかりの暖かい愛の中で生きられる訳ではない。どんな人間も心の中に愛を持ち、その自らの愛に屈服して生きている。羅威は家族への愛の奴隷となった。母もまた、見えない夫の心を求め続けた。

父は息子と祥那への愛の為に生きた。俺自身も、未祥という哀しみの天女を愛している。もしかしたら人は誰しも、望むと望まざるとに関わらず、様々な形をした愛≠ニいうものの、残酷な奴隷として生きていくのかもしれない。

羅威の姿がほのかに光り出す。六人が見つめる中、羅威の体がうすく霞んできた。

「羅威くん!」と楓が呼びかける。羅威は白く透き通り、全身が細かく光りだす。ところどころが蒸発するように消え失せ、最後に羅威は光りの泡となった。

細かな光りは空中にたゆたい、ゆっくりと散り始めた。涙を流すひとりひとりの顔の周りを、フワフワと漂っていく。六人が見守る中、光りは散り散りに広がっていった。その光りは壁や床、天井に吸い込まれていく。

可畏は羅威がこの建物に宿ろうとしているのではないか、と思った。家族を愛し、家族を求めたこの場所に──羅威が「愛の館」と呼んだこの家に、自分自身を溶け込ませて行こうとしている……。

くぐもったうめき声が聞こえた。可畏は光と目を合わせる。この部屋でない場所にいるのは一人しかいない。

「ここから動かないで」

楓と高校生たちに声を掛け、可畏と光はドアへ走った。二人の周りで柔らかな光りが煽られるようにフワリと散った。志門も立ち上がって、二人の後を追いかける。一瞬羅威に視線を向けると、そこには持ち主を無くした服が力なく床に広がっていた。

光が多聞を縛って閉じ込めたのは一階の一部屋だった。可畏がドアを開けると、手足を縛られた多聞の息子が泡を吹いて白目をむいている。その体の周りを白い光りが数粒、まとわりつくように飛び交っていた。

多聞はもう、息をしていなかった。光の後ろから志門が覗き込むと、学校帰りに路上で見た光景の再現が目の前で始まるところだった。ジワジワと猿男が黒く染まり小さく縮まっていく。三人が無言で見守る中、多聞の息子は黒い燃えカスのようになった。

「──なんだか父親の遺体の変化とは違うみたいだな。多聞義男はもっとドロドロした黒い液体だった気がする」

服と紐を残して、黒い消し炭に似た粉になり変わった猿男を見て、可畏がつぶやいた。

「確かにそうだな。きっとこいつは息子でまだ若いし、義男ほどの悪行を犯していなかったからこの程度なのかもしれんぞ。それにしても──何で死んだんだ?」

光が腕を組んで黒い残骸を見ながら言った。その疑問に答えたのは志門だった。