第八十四話

「おま……えは、バカじゃない。たまたま、育った環境が悪くて、学歴がないだけだ。バカじゃ、美味い料理作れないだろ」

愛おしそうに楓を見つめて、羅威が言う。そこに光が戻ってきた。志門が光の後ろから毛布を抱えてやってくる。

「多聞は捕まえてぶん殴ってきた。今は手足を縛って、ペンションの一部屋に閉じ込めてある。気絶してるよ。羅威、なんだったらぶっ殺してこようか?」

光が羅威の横にひざまずいていうと、羅威は笑って首を振った。またシャツに血がにじむ。志門は羅威に毛布を掛けた。可畏がお礼を言う。体温を下げない方がいい、ということを失念していた。志門が気付いてくれて助かった。志門は心痛な面持ちで光の後ろまで下がって地面に膝をつく。

「あんたには、人殺しは無理だよ。好い人過ぎて、背負い切れない」

紫色の唇を動かして羅威が光に言う。どんどん白さを増す羅威の顔を見つめて、光は唇を歪めた。目には既に涙が溢れている。

「女鬼だ。ものすごく希少だぞ。羅威、可愛い子だな」

可畏が羅威の体を支えながら話しかける。目の前にある現実が恐ろしくて、どうしても手が震えてしまう。羅威が自嘲的な笑みを浮かべた。

「兄さん、俺さ……避妊には自信あったのに、失敗しちゃったよ」

ハハ、と弱々しく声を立てて羅威が笑う。兄さん≠ニ呼ばれて、可畏は胸が痛いほど熱くなった。この世で俺を兄さん≠ニ呼べるのは、羅威だけなのだ。

どうしてもっと早く、羅威に会わなかったのだろう。もっと早く会って、思い切りケンカして、しっかり仲直りすれば良かった。兄弟なのに──ただ一人の、血のつながった弟なのに……!

「ら……い、羅威。病院に行こう。間に合うかもしれない。大丈夫かもしれないだろ? 俺はイヤだ。このまま……こんな……」

止めてはいるものの、ゆっくりと広がっていくシャツの血を見て、うろたえながら可畏が言った。その時、裕生が声を上げた。

「血を飲んで下さい」

未祥は驚いて裕生を見た。裕生は毅然と、羅威を見つめている。

「鬼は口から人間の血を飲めるんでしょう? あたしの血を飲んで下さい。一時的でも、輸血と同じ効果があるかもしれない」

「そうか……、そうだな。羅威、血をもらえ。その後治療を受ければきっと大丈夫だ」

光が嬉しそうに言った。希望を見つけて、涙顔のまま笑いを浮かべている。可畏も裕生の提案に光が見えた気がした。しかし、弟はまた首を横に振る。

「有難いけど、俺にはもう……人間の血はキツいんだ。医者が言うには、俺の内臓は色んなとこがボロボロなんだってさ。ガキの頃からたくさん、強い薬使ってきたから、あっちこっちにガタがきてる。特に心臓がヤバいって。

子供の血は俺にパワーをくれたけど、同時に内臓も痛めつけてたんだ。一、二年、持てばいいかなーって言われたのが一年前。あのクソ医者、気楽そうに言いやがって」

はぁ、と息をついて、羅威が身じろぎした。楓と子供と向き合おうと顔を上げる。可畏が肩をつかんで手伝った。

「俺が楓と別れたのは、医者の宣告があったからだ。俺はお前に、ふさわしくないと思ったから離れた。……らいらを、産んでくれて、ありがとう」

楓の目を真っ直ぐ見つめて、羅威は言った。その直後、羅威の息が急速に乱れ始めた。一度朦朧と目をさまよわせると、グラリと揺れて後ろに昏倒する。「羅威くんっ」と楓が叫ぶ。可畏と光も羅威の名を呼んだ。未祥は涙で喉が詰まって、言葉が出てこなかった。投げ出された羅威の脚を、手でさする事しかできない。

人気のない林の奥のペンションの前で、羅威の名を呼ぶ悲痛な声がこだまする。枯れた木々はただ静かに立ち並び、その情景を見守っていた。

「……あ……にいさ……」

不意に羅威が目を開けて、可畏を見上げた。土気色になった顔は、羅威の時間が短いことを如実に語っている。可畏はよく聞き取れるように、羅威に顔を近づけた。

「死ぬ……思わなか……んだ。父さん、死ぬなんて……おれ……」

「ああ、分かってる。分かってるよ、羅威」

「あんたも、比丘尼も、憎か、た。……未祥……傷つけて……ごめ」

「……羅威!」

「とう、さ……、言った。可畏に、会えって……。伝え……可畏なら、出来る。伝説……こわせ……。ぞう……か……ん」

途切れ途切れの羅威の言葉を、可畏は必死で聞き取ろうとした。でも荒い息から出される声が、何を伝えたいのか分からない。

突然羅威が、起き上がろうとした。可畏は慌てて羅威を支える。羅威が楓に向かって手を伸ばす。羅威が最後の力を振り絞って、何をしようとしているのか楓には分かった。楓は腕に抱いた我が子を、父親の手に渡した。

どこにこんな力を残していたのかと思うほど、しっかりと羅威は娘を抱いた。ピンク色のおくるみの中で、らいらは目を覚ましていた。はっきり見えているのかどうか分からない目で、父親を見る。

大きな灰色の瞳。羅刹と夜叉から始まった刀利村の長い歴史の中で、三人目に当たる女鬼の証──。

らいらは握っていた手を羅威に向けて伸ばした。羅威は微笑むと娘に顔を近づける。首に当てたシャツが下に落ちた。羅威の首元からはまだ血が流れている。

「兄さ……ん。楓と、らいらを……頼む」

やっとのこと、絞り出した声。羅威は更にしっかりと、らいらを抱き寄せた。まだ首の座らないらいらの頭を手で包み、自分の首元へ引き上げる。

ハッと可畏は息を飲んだ。自らの目の下、弟の頭のそばに小さな頭がくっついている。そこでかすかに、音がする。ペチャペチャと何かを舐めるような──。

「──羅威!」

突然叫ばれた声に、赤ん坊がビクッと震えた。そのまま声を上げて泣き始める。羅威の頭が横に傾いだ。手から力が抜けて、らいらが落ちそうになる。楓が大急ぎでらいらに手を伸ばす。

完全に力を失い、だらりと首を垂らした羅威を、可畏は呆然と支えた。弟の体には、もう命の力は感じられない。一瞬だけ、しびれるように羅威の体が硬直した気がした。気のせいかと思うほどの小さな反応──。でも可畏にはそれが何か分かった。

鬼の唾液は鬼にとって毒になる

そう、羅威は娘に傷口から血を飲ませたのだ。らいらの唾液が体にまわり、拒絶反応を起こした。弟の残り少ない時間は、毒によって更に短縮された。

可畏は震える手で弟を抱き寄せた。羅威は自分を罰したのだ。過ちで殺してしまった父と同じ死に方をすることで。

「羅威……羅威!」

腕の中で弛緩した弟を揺らして、可畏は呼びかけた。

一度は本気で憎んだ──あの皮肉気な笑い顔が浮かぶ。でも本当の弟は、ただの寂しがり屋だった。母親に翻弄され、運命にもてあそばれ、それでも家族を愛する心を捨てることのなかった、たった一人の兄弟。

「すまない、羅威。俺がもっと……ああ、なんで……羅威!」

可畏の口から洩れる悔恨の嗚咽は、真冬の山の清らかな空気に、重く冷たく沁みていく。葉を落とした木々と熱のない常緑樹は、感情のない姿で森閑と佇み、冷えた風に運ばれた可畏の歔泣(ききゅう)を、その懐に吸い込んだ。