第八十三話 *

シュッ、と風の鳴る音が可畏の耳に響いた。

多聞が弾き飛ばされ、尻餅をついてバウンドする。その場がまるで、ビデオ画像をストップしたように全員動きを止めた。

多聞の息子はコンクリートの地面に尻をついたまま、大口を開けて目の前を見ている。その手には刃物を持っていない。猿男が今までいた場所には、羅威がうずくまっていた。しゃがんで抱え込むようにピンクのおくるみを抱いている。

その首の付け根に、多聞の包丁が突き刺さっていた。羅威は顔を上げると、多聞を見た。片手でしっかり赤ん坊を抱きながら、自らの首元に刺された包丁を抜き取る。可畏の目に、羅威の首からビュッと血が飛び出たのが見えた。多聞の猿顔が引き歪み、ガタガタと震え始める。

「うぐ、あぁ。わぁああ──っ」

言葉にならない叫び声を発して、座ったまま多聞は後ずさった。足で地面を蹴りつけながら、尻滑りで離れていく。羅威が包丁を手から放した。カラン、と音を立てて包丁がコンクリートに当たり、地面に細かい血しぶきを作る。

「ヒ、ヒィイ」

多聞は一声上げると体の向きを変えた。見つめる人々に背を向け、四つん這いで逃げ始める。引きずったせいか、ズボンの尻が擦り切れていた。両手両足を使い、まさに猿そのものの姿で逃げる多聞を、光と志門が追いかけた。

「羅威!」

地べたにくずおれ、横たわった羅威の元に可畏は駆け寄った。羅威は胸元にしっかり、赤ん坊を抱えている。乳児は火がついたように泣いていた。可畏は今までその鳴き声が耳に入らないほど、自身が混乱していたと気付く。

羅威は近寄る可畏に子供を差し出した。首からは大量の血が流れ、青いシャツを濃い赤紫色に変えている。可畏は泣き叫ぶ赤子を受け取ると、後ろにいる女性を振り返った。驚愕のあまり固まっていた女性が我に返り、奪い取るように可畏から赤ん坊を受け取った。

可畏はシャツを脱ぐと弟の首元にそれを当てた。元々顔色の悪かった弟は、今では死人のように青白い。

「救急車を!」と可畏は叫んだ。呆然としていた裕生と未祥が、大急ぎで自分の携帯を出そうとポケットを探る。そこで羅威が左手を上げた。

「い……よ。救急車、呼ばなくて。多分、無駄だ」

奇妙なほど冷静に、未祥と裕生を見ながら羅威が言った。弟の頭を自分の膝に乗せた可畏は当惑して羅威を見た。

「お前何言って……」

「余命、宣告されてんだ。俺」

可畏は絶句して弟を見た。ほとんど無意識に羅威の首にシャツを押し当て、直接的に傷口を圧迫する止血法を試みる。血が噴き出る勢いがおさまり、シャツに滲む血の量は確実に減った。可畏は少し安堵した。

「とにかく救急車は呼ぶ。未祥、電話を──」

「やめろ!」

鋭く羅威が遮った。携帯を出した未祥と裕生が困惑して可畏を見る。叫んだせいで首に当てたシャツにジワッと血が広がった。

「い……いんだ。俺の心臓、もう持たない。頼む、話をさせてくれ」

言うと羅威は赤子を抱える女性に目をやる。可畏は何も言えず、弟と同じ方を見た。女性は子供を縦抱きにして、背中を優しく叩いていた。赤ん坊はもう泣いてなかった。でも母親の目からは大量の涙が流れている。

「楓」

羅威は女性に呼びかけた。蒼白な顔に笑顔が浮かぶ。未祥はその顔が、可畏そっくりに見えた。冷笑ではない羅威の微笑は、未祥を見て笑う可畏の笑顔と同じだった。

「ひさ……ぶり。お前、結婚したのか? 昔の男に、赤ん坊、見せに来たのかよ」

兄に頭を預けながら、軽い調子で羅威は言った。小柄で、鼻に少しそばかすの散るクリッとした目の女性は、口を引き結ぶと羅威に近寄った。赤ん坊を抱えて羅威の前に座る。

「女の子なの」

楓という女性は、それだけ言うと赤ちゃんを抱き直し、羅威に向けておくるみを開いた。生後二ヶ月ほどの乳児は、透き通るように色が白く、可愛らしい顔立ちだった。その髪の色は濃い青灰色をしている。

赤ん坊を見つめる羅威の目が、大きく開かれていく。羅威を後ろから支える可畏も同時に目を見張った。

弟と──自分と同じ髪の色……

「……俺の、子か?」

震える声で羅威が訊いた。楓は勢いよく頷いた。楓の目から、涙が散った。

「羅威くんがいなくなって、一ヶ月後に妊娠に気付いたの。羅威くんがたくさんお金残してってくれたから、産むことが出来たの。出産のためにバイトは辞めなきゃなんなかったけど、今も困ってないよ。お金、大切に使ってる。

ここに来たのは、らいらをお父さんに会わせたかったから。それだけ。保育園に空きが出来たら、すぐ働きに出るつもり。あたしひとりで育てるって決めてるから。勝手に産んで、ごめんね」

楓はまるで決まっているセリフをしゃべるように、一気に話した。未祥は裕生と一緒に羅威の前にしゃがみながら、この楓という人は、きっと今のセリフを何度も何度も練習しながらここまで来たのではないか、と思った。

羅威は楓の妊娠を知らないまま、楓と別れた。羅威に会いに来ても、もしかしたら「お前が勝手に産んだんだろ」と言われて拒絶されるかもしれない。でも自分は産みたかったから産んだし、これからも迷惑をかけるつもりはない。そういうことを必死で考えながら、この女性はここを訪れたのではないだろうか。

「……らいらっていうのか」

羅威はまぶしそうな目で赤ん坊を見て言った。楓がうなずくと、口の端を上げて笑う。

「なんか、今はやりのキラキラネームっぽいな」

「羅威くんの名前から字をもらいたかったの。でもあたしバカだから漢字分かんないし、前ここに来たとき、庭にライラックの花が咲いてたから……。すごく綺麗で……だから……」

楓は涙で、言葉を詰まらせた。やっと会いに来た元恋人は──娘の父親は、死の間際にいる。あまりの痛々しさに、未祥も喉が詰まった。

赤ん坊がむずがりだす。楓は開いたおくるみをなおし、らいらを胸元に寄せた。軽く揺らしながらトントンする。らいらはまたおとなしくなった。