第八十二話

「これ……なに? あの時の?」

未祥も重い空気の圧迫を感じていた。二日前学校で感じたイヤな気配と同じ。視線というより、ドロリとした感情そのものの波動を肌で受けているような不快感だった。未祥は不安な思いで可畏を見上げた。可畏は未祥の手を取ると、建物に促した。

「とにかく、中に入ろう。ペンションには結界がかけてある。少なくともここより安全だ」

未祥は可畏と志門に挟まれて移動した。光と裕生にも危険な気配が迫っていることを告げる。話を聞いた裕生が、ペンションの裏口のドアノブを回したが、カギがかかっていて開かなかった。正面側に回るしかない。

「いざとなったら俺が未祥を抱いて飛ぶぞ」

光が提案してくれたので、可畏は頷いた。しかし──と可畏は思う。この悪意≠ヘ未祥を狙ったものなのか? 目的が分からない。

一体誰を……何を探しているのか──。

五人は辺りに気を配りながら玄関の方向へ走った。建物の横を通り過ぎる時、ブルルル……、という車のアイドリングの音が聞こえた。その音はすぐ止んだ。どうやらエンジンを切ったようだ。

可畏が未祥の手を引いて芝生に踏み込む。とりあえず高校生だけでも建物に入った方がいいと思い、可畏は先を急いだ。車のドアを閉める音がして、ペンションの出入り口にあたる、芝生の中道の切れた場所に人が歩いてくるのが見えた。可畏のランクルの横に軽自動車が停められているのが、木の柵の向こうに確認できた。

歩いてくる人物を見て、五人は足を止めた。暗めのモスグリーンのコートを着た、小柄な女性が小道に入ってくる。胸元に手を当て、どこか不安そうだ。

可畏は拍子抜けする思いで立ち尽くした。女性から悪意は全く感じられない。不穏な空気はこの女性とは関係ない。まだ若い、やっと十代が終わったあたりの年齢に見える女性が、ふと顔を上げた。低灌木の向こうに五人の姿を見つけ、ビクリと震えてその場に止まる。

女性は胸元に手を当てたままオロオロした様子で五人の顔を確認した。その目が可畏の姿をとらえると、ハッと息を飲んで目を見開く。女性は呆然と口を開け、未祥を強く抱き寄せる可畏の腕と、寄り添う未祥の様子を見た。女性の手が、胸元から口元へ移動する。その手はブルブルと震えていた。

「あ、あの……あたし……」

女性の言葉は、そこまでしか続かなかった。深いショックを受けて、どうしたらいいのか分からなくなっているように見えた。

未祥が可畏から体を離し、女性の様子を見ようと足を出した。見開かれた女性の目から、涙がこぼれる。

「ごっ……ごめんなさい」

言うなり女性は後ろを向き、元来た道を駆けだした。未祥は可畏と一瞬目を合わせ、お互いの中に同じ見解を示す思いを見て取った。

あの女性は、可畏を羅威と間違えたのだ。寄り添う未祥を、羅威の恋人だと勘違いした──。未祥は急いで女性の背中を追いかけた。可畏はすぐに未祥を追い越し、女性に声を掛けようと口を開けた。

「やゃあぁ───っ」

出そうと思った声が、可畏の喉で止まった。叫んだのは女性だ。背中を向けたまま立ち止まり、両手を軽く広げてガクガク震えている。

「ああ、やめて……! お願い。あ……あ……」

女性の混乱した声が、後ろから来る五人の耳に入った。最初に女性の横に並んだ可畏は、彼女が見ているものを目にして恐怖のあまり硬直した。

ペンションの庭の前にあるコンクリート敷きの駐車場。可畏のランクルと女性の軽自動車の真ん中。そこに、サルそっくりな顔をした小男が、片手に布のかたまりを抱えて薄笑いを浮かべている。もう片方の手には刃物を持っている。長い、刺身包丁かと思われるその刃物の切っ先は、手に抱く布に向けられていた。

ピンク色をした柔らかそうな布は、赤ん坊を包むおくるみだった。サル男の手には、まだ生後数か月程度の小さな赤ん坊が抱かれていた。軽自動車の後部ドアが開けられている。男は女性の車から赤ん坊を取り出したと分かった。上目づかいで薄ら笑いを浮かべる男から、粘つくような悪意≠ェ発散されていた。

「──多聞!」

可畏の後ろから追いついた光が鋭く言った。

「多聞の息子かっ。お前、何をしている!」

「戟、返せ」

猿男は短く、それだけ言った。未祥はその顔を見て総毛だった。学校帰りに見た、羅威に殺された猿男とそっくりだ。違うのは顔にある皺の数。前に会った多聞≠ヘこの男よりもっと皺が深く多かった。息子というだけあり、この前の男より若く見える。でもその醜悪な雰囲気は父親と比べて引けを取らなかった。

「お前、羅威、戟取った。よくない。次戟持つの俺の番。ずっと待ってたのに、ズルい。おひいさま、俺のもの。宝も、俺のものだ」

片言のようにすら聞こえるしゃべり方も、父親とよく似ていた。しゃべる度に刃物の先が赤ちゃんの顔の真上で揺れる。女性がまた悲鳴を上げた。

「いやよ、ダメ! その子を離してッ」

半狂乱の声で女性が叫ぶ。可畏はどう動くべきか計算した。何よりもまず、子供を無事に取り戻さねばならない。可畏はポケットに手を入れると、戟を取り出そうとした。

いきなり、女性が走り出した。多聞に向かって──我が子に向かって突き進む。多聞が焦って刃物を振り上げる。脅しているのは自分なのに、色を失った顔は恐怖に怯えていた。

「くるなぁ!」と女性に向けて多聞が声を上げる。可畏は前に出た。光は宙に浮き、志門も走り出す。混乱した猿男の振り上げた包丁が太陽の光を反射してギラリと瞬く。

それが下に向かって振り落とされた。