第八十一話

「どうした」

急に声がかかり、二人は飛び上がった。後ろを見るといつの間にか可畏が部屋に来ている。光と志門も後からついてきた。

「よ、よく分かんない。あっちから音がしたの」

未祥がドアを指さすと、可畏は急いでドアを開けた。バスルームへ入り、そこから隣へ続くドアも開ける。まず見えたのはベッドの横にうずくまる羅威だった。

羅威は頭を抱え、震えながら唸っていた。可畏が窓に目をやると、ガラスが割れ、窓のすぐ下に父の日記が落ちている。どうやら羅威が日記を窓に叩きつけたらしい。

窓には格子が入っているので、ぶつかった衝撃でガラスが割れたものの、日記は外に飛び出すことなく下に落ちたように見えた。

「──羅威」

可畏は横に跪き、羅威の肩に手を掛けた。弟は頭から手を放し、顔をあげた。羅威の顔はまるで見てはいけないもの、恐ろしい化け物を目撃したばかりのように、引きつったまま固まっていた。

「俺は……なんだ?」

大きく開かれた目は血走り、食い入るように兄の顔を凝視する。出される声は苦しげで、出せない声を無理矢理発音しようとしているかのようだ。

「俺は、なんなんだ? オモチャか? 母さんに、利用されただけなのか?」

「羅威」

「愛されてると思ってた」

羅威は可畏と目を合わせているはずなのに、可畏を見てはいなかった。可畏は弟の肩をつかむ手に力を入れた。

「母さんは、俺を愛してるから、手元に残したんだ。ずっとそう思ってきた。俺は父さんに捨てられたけど、母さんは俺を選んでくれたんだって……。どっかおかしいと思っても、愛情なんだって信じてきた。痛いのも、苦しいのも、何度も我慢したのに」

羅威の手が、可畏の腕をつかむ。シャツの袖を握る手は、異様なほど熱かった。

「あんたらがいなくなってすぐ、俺は手術を受けたんだ。心臓の穴はかなり小さくなってたらしいけど、母さんのたっての願いで穴を塞ぐ手術をした。父さんと別れたばっかだし、村のみんなは同情して何度もお見舞いに来てくれた。

羅威はいい子ね≠チて母さんは言うんだ。俺を抱きしめて、あなただけが私の宝よって。でもみんなだって自分の生活があるし、いつまでもかまってくれない。みんなから親子二人で頑張って生きなきゃ、って言われても、母さんは夢の世界にいたんだ。

俺が時々倒れると、畑の手伝いを投げ出して病院に行く。一生懸命心配してくれたよ。大丈夫よ、大丈夫よって手を握って。俺が──」

言葉を切った羅威の息は、荒かった。可畏の体には羅威から発散される熱が湧き上がるように伝わってくる。

「俺がどうしてここまで成長出来たか分かるか? 小学生の頃は、下痢が続いててチビだった。俺は自分の体がうまく栄養が取れないって分かってた。だから中学に上がってから、ひとから血をもらうことにしたんだ。初めは夜道で、村人を狙った。

一度偶然子供の血を飲んだ時、パワーの付き方が全然違うのが分かった。それからは街までおりて子供を探し回るようになった。倒れることもなくなって、熱も出さなくなった。それからだ、母さんが完全におかしくなったのは」

「──お前……」

「高校は狩り≠ェしやすいように街中を選んだ。おかげでここまで成長出来た。でも、もう……手遅れだ。おれ……俺は──」

可畏のシャツを引きちぎらんばかりの勢いで握り締め、羅威は下を向いた。可畏は自分の愚かさを悔いた。なぜ日記を読む時、羅威を独りにしたのか……。一緒にいてやれば良かった。日記の内容から、羅威が傷つくのは明白だったのに。

「奴隷だよ」

低く吐き出された、羅威の言葉。

「俺は奴隷だ。あの女の──。あいつの快楽のために利用された、みじめな道化だ!」

叫ぶなり羅威は立ち上がった。可畏が止める間もなく、その姿が消える。可畏の後ろに立ち尽くしていた未祥の横を、ヒュッと鋭く、空気が動いた。速い風の圧迫は光と志門、裕生の横にも届いた。ガチャ、バンッ、と玄関の方でドアを開閉する音がする。羅威はあっという間に外に出て行ってしまった。

可畏も跳ね上がるように立つと、羅威のあとを追いかけた。「おい、可畏!」と光が呼びかけたが、足を止めずに玄関に走る。速疾鬼を追うなど無謀なことだ。そう分かっていて、それでも追いかけずにはいられなかった。

可畏は玄関を出ると裏庭に向かった。ペンションの裏は洗濯物が干せるようにスタンドが設置され、近くに物置小屋と車庫がある。その奥は林が続いていた。

所々枯れ枝が落ちている林の中は、かなり歩きにくかった。いきなり原始の世界に放り込まれたようだ。でも可畏には、なんとなく弟が林に入った気がしていた。

羅威は可畏の居場所が分かると言っていた。それなら俺にも、羅威のいる場所が分かるかもしれない。可畏は目を閉じ、意識を集中した。そのまま全神経を外に向かって解き放つ。弟の存在を感じる方向を探ろうとした時、あの気配をとらえた。

即座に可畏は後方に目をやる。四人は可畏に付いてきていて、未祥の姿も確認できた。可畏の一番近くにいたのは志門だ。林に入ってすぐの場所に立っている。その後ろに未祥。

物干しスタンドのそばに光と裕生が横顔を見せて立っていて、可畏とは別方向から羅威を探そうと相談しているようだ。

可畏は志門を見た。志門の顔は蒼白で、やはりあの気配を感じ取っていると分かった。可畏が未祥の元へ足を踏み出すと同時に、志門も未祥のいる場所へ戻る。可畏は足にまとわりつく細い枝を踏みつけながら、もどかしい思いで未祥と志門の所へ走った。

「可畏さん、います」

「ああ、近いな。でもこっちじゃない。正面の方だ」

あの気配。

深夜に可畏と志門を目覚めさせた悪意=Bそれがまたペンションのそばまで来ている。