第七十九話

「俺はお前と未祥があの家を逃げ出した後、何度もあそこへ行って入ろうとした。でも結界のせいで入れなかった。お前の逃げた方向はなんとなく分かったけど、頼むのもイヤだし、そのうちどうでも良くなった。父さんは死んだ。俺の夢はもう──叶わない」

下からすくい上げるように可畏を見ていた羅威が、突然クッと声をあげて笑った。乱れた前髪から覗く目は、人を喰い尽くす鬼そのものに見える。

「戟を手に入れて、さぞ得意だろうな。でも残念ながら比丘尼とは最後までやれないかもしれないぜ」

「──なに……?」

「比丘尼の夫になる条件は戟を手に入れた後、比丘尼が十六になるまでに口づけを交わす必要があるんだ。お前は未祥が十六歳になる前にキスくらいしたかもしれないけど、肝心の戟を持っていなかった。

だから今、お前には鬼を使役する資格はあるが未祥とHまでは出来ない可能性が高い。戟を持ってキスをしたのは俺だからな。でも俺は戟を手放した。よって俺もまた、未祥を抱く資格はない。

詰まる所、現在未祥を抱く資格がある奴は存在しないことになる。可哀相な未祥ちゃん。伝説に縛られたあんたは、本物のオトコを知らずに生きていくんだ」

あざ笑うように言い終えた羅威を、可畏は硬直しながら見るしかなかった。比丘尼の夫≠ノなる条件……。ちゃんと光から聞いたはずなのに口づけの部分を失念していた。

「現実っていうのは、残酷なんだよ。それでもお前はまだいい。好きな女と一緒にいられるんだからな」

羅威の顔から嘲笑がなくなる。いっとき、そこにはない何かを探し求めるように遠い目をした。そして突然自分の手にある日記に目をやった。まるで今までそれを持っていたのを忘れていたかのように──。

羅威はクルリと後ろを向くと、隣の部屋へ通じるドアを開けた。そのまま立ち去るのかと思いきや、途中まで開けたドアの手前で立ち止まる。

「今のはただの可能性だ。俺の考えた憶測でしかない。あんたが未祥を抱いても、問題ないかもしれない。戟の持ち主なんだから半分は夫≠フ資格があるだろう。それに何より、お前は比丘尼の愛する男≠セ。勝算はある。思い切ってやってみればいい。──賭けだけどな」

言い終わると止める間もなく羅威はドアの向こうへ消えた。可畏は閉められたドアを言葉もなく見ていた。

手の中にある小さな棒……。金色の三叉戟。早く欲しいと求めた神具。

やっとそれを手に入れたのに、未祥を抱くことは叶わない。羅威は思い切ってやってみろと言ったが、そんな一か八かの恐ろしい賭けをするなど、可畏には有り得なかった。

「……可畏」

立ち尽くす可畏に、光が低く声を掛ける。

「すまん、俺も戟さえ手に入れればお前が多聞≠ノなれると思っていた。契約の口づけの事は頭からすっぽ抜けていた。ほんとに……悪かった」

太い眉を下げて、泣き出しそうな声で光が言う。でも可畏は、返事を口にすることが出来なかった。羅威の話したことの一つ一つを消化することが出来ず、考えることも気を遣うこともすべて停止した。力なく肩を落として、羅威の閉めたドアを見ているだけだった。

「未祥!」

名前を呼んでから、裕生が未祥に駆け寄る足音がした。可畏は我に返って振り向いた。可畏の後ろで未祥が床にしゃがみ込んでいる。裕生も一緒に座って未祥の背中を撫でていた。

未祥は両手を顔に当て、震えている。可畏も急いでその場に膝をつく。未祥は嗚咽を殺して涙を流していた。可畏は未祥の肩に手を掛けた。

「ご……めん、ね。あたしが──こんなだから可畏が……っ」

途切れ途切れに聞こえる未祥の言葉に、可畏は胸を貫かれた。未祥は自分を責めている。未祥自身には全く何の落ち度もないことで──。

「やれなきゃ愛が壊れるんですか?」

突如響いた冷たい声に、ハッとして可畏は顔をあげた。目の前に両手を握りしめて立つ志門がいた。切れ長の黒い瞳が射抜くように可畏を見据えている。

「あなたの愛情がそんなものなら、未祥ちゃんをオレにください。世の中には、事故とか病気とか、色んな事情で最後まで出来ない人もいるでしょう。でもそういう人たち全てが、愛を失いますか? 

可畏さんがそのことで未祥ちゃんに負い目を感じさせるなら、オレはあんたを軽蔑する。あんたには、未祥ちゃんの恋人でいる資格はない」

志門の言葉は、青臭かった。真っ直ぐだった。だからこそ、事の本質を突いていた。羅威に未祥を奪われた時、俺は何と思った? ひとつになれなくても、未祥のそばを離れないと誓ったはずだ。

その後戟が手に入りそうと思っただけで、あの純粋な気持ちがひび割れたのか? 俺は──そんなにもくだらない人間だったのか?

「……きみの言う通りだ。俺が馬鹿だった。でも未祥は渡さない。誰にも、渡したりしない」

可畏はうずくまる未祥を、両手を広げて抱きしめた。未祥は可畏の首に腕を回し、肩に顔を押し付けて泣いた。声が漏れるのも構わず、むせび泣く。

「ごめん、未祥。傷つけて悪かった。愛してるよ。未祥だけを……愛してる、愛してる」

可畏の声が、冬の冷たい朝陽が差し込む部屋に溶けていく。繰り返し、繰り返し。いつまでも途切れることなく。



愛してる、愛してる、愛してる……