第七十八話

「これで今からお前が鬼の大将だ。せいぜい威張りくさるんだな」

言うと羅威は身をひるがえし、バスルームへ通じるドアへ向かった。可畏は戟を握りしめ、「羅威」と弟の背中に声を掛けた。羅威が立ち止まる。

「なに? 俺、風呂入ってから日記読みたいんだけど」

「お前──父さんに会っただろ」

「……」

羅威は背中を向けたまま、口をつぐんでいた。可畏は隣にいる未祥の手を握ると、立ち上がった。そして未祥を後ろに庇う。可畏の目は弟から離れない。動かない羅威に一歩近づいた時、羅威の声が疑問に答えた。

「会ったよ」

やはりそうか……。父の日記、亡くなる二日前の記述を可畏は思い出す。あれは羅威かもしれない≠ニ父は書き残していた。この数日、ずっと誰かに見られている感覚がある、と。

二日後父は死んだ。父の死因は首を切り裂かれていた≠アとだ。そして弟の持つ速疾鬼の能力──。

「お前が、父さんを殺したのか?」

張りつめていた部屋の空気が、更に強く引き伸ばされたように硬さを増した。未祥は衝撃のあまり動けなかった。可畏の後ろで広い背中を見るだけしか出来ない。

聡おじさんを──羅威が殺した? 実の父親を? 

羅威は五人に背を向けたまま、しばらく無言でいた。未祥以外の四人の視線が羅威の背中に突き刺さる。しばし彫像のように動かなかった羅威が、ゆっくり振り向いた。顔には薄い笑いを浮かべていた。

「会いたかったって言ったんだ」

つかみどころのない、微かな笑顔を可畏に向けて、羅威は語りだした。未祥は固まる体を無理に動かし、可畏の後ろから羅威を見た。羅威の目は可畏ひとりだけを見据えている。

「探したのは俺なのに。会いに行ったのも俺なのに……。会社帰りで、作業服みたいなの着てた。年取って、いかにもフツーのリーマンって顔でさ。羅威なのか? 本当にお前か?≠サう言って、俺に近づいてきた。ボロボロ涙流してさ。

バカじゃんって思ったよ。今更なんだよ。俺たちを捨てたくせに……。比丘尼を選んで俺と母さんを捨てて、そのせいで母さんは狂っちゃったのに──」

「それは違う」

可畏が言うと、羅威はキッとして兄を睨んだ。薄ら笑いが消えて、憎悪がむき出しになる。その目には怒りと哀しみが渦巻いていた。暗い苦みを舐めてきた者特有の、孤独と恐れの発露。

「ずっと忘れなかった? 遠くから思い続けてきた? 笑わせんなよ。そんなに思ってんなら、さっさと助けに来いよ。放置しまくったくせに、会いたかったとぬかしやがる。そんで俺に近づいて、抱きしめたんだ。だから俺は首を噛んだ。そして血をもらった。暗示をかけようと思ったんだ。母さんに会って欲しかったから」

「──なぜ……母さんに?」

「抱いてっていうからさ」

可畏は当惑して、言葉を失った。そんな可畏をまた薄く笑いながら羅威が見つめる。

「俺が高校三年の冬、母さんはもう母親≠カゃなくなった。俺のこと、聡さんって呼ぶんだ。ねぇ聡さん、私いい奥さんになるわ。だから抱いて。私はあなたの妻なんだから、出来るでしょう? 私とあなたは釣り合わないって分かってる。でも好きなの。あなたをずっと──好きだったのよ」

羅威は一瞬で可畏の目の前に来る。その腕を可畏の肩にかけ、しなだれかかった。

「俺が病院に面会に行く度、こうして俺に迫るんだ。唇を押し付けられたこともある。それで俺が拒否すると、泣きわめくんだ。比丘尼が憎い、祥那が憎いってね。俺だって憎いさ。比丘尼も、親父も、クソくらえと思ったよ。でも俺の夢が……」

羅威は可畏から腕を離すと、唇とこわばらせた。一歩離れて視線を空にさまよわせる。

「この場所で、ペンションで、もう一度家族で過ごしたい。あの夏を、もう一度だけやり直したい。その夢を叶えたかった。母さんに暗示をかけてここに連れてきて、父さんにもそうすれば叶うと思った。

医者は母さんに強い薬を与えてたから、いつ死んでしまっても不思議はなかった。間に合ううちに会いに行こう。そう思って父さんに会った。でも憎くて……。顔を見たら許せなくて……」

羅威は下を向いた。前髪がその表情を隠す。肩を震わせ手を握り締める姿は、絶望的なほど孤独だった。

「あの時は、何が何でも父さんを連れて行こうと思ってた。だから血を飲んだんだ。そうすれば暗示をかけられるから。でも父さんには暗示なんかかけられなかった。驚いた顔で俺を見てから、道路に倒れこんだ。

俺は訳が分かんなくて、あんたなんか嫌いだと言った。あんたも比丘尼も可畏も、俺と同じくらい苦しめばいいって──。父さんは手で首を抑えて、俺の事見てた。ののしる俺を困った顔でさ。首から流れる血は全然止まらなくて、父さんの青い作業服が変な紫色みたいになってた。

そのうち父さんは震えだした。顔色が真っ青で息が荒くなった。そんな中、俺に言ったんだ。日記を読めって。日記の隠し場所を教えてから、お前になら読めるからって……」

下を向いたまま話していた羅威は、不意に顔を上げた。可畏を正面からとらえた顔は、ゾッとするほど白く、目が真っ赤に充血している。

「その後なんて言ったと思う? 可畏と会ってくれ、だよ。兄弟を引き離して悪かった。父さんを許してくれ。……俺は笑ったよ。せっかく会いに来たのに、ここでも可畏≠ネんだ。いつだって父さんが選ぶのはお前だ。

父さんにとって大切なのは、お前だけなんだ。俺なんかどうでもいい──。だから言ってやった。逃亡者≠フ居場所が分かったことを、多聞に報告してやるって。その後の事は知らない。俺はそのまま立ち去ったから」

だから父さんは俺に逃げろ≠ニ言ったのか、と可畏は察した。四年前のあの日──父さんの切れ切れの声。最後の力を振り絞って、今いる場所から逃げるように可畏に伝えて息絶えた。

死因は自身の息子の毒だ。鬼にとって鬼の唾液は毒になる。羅威はそのことを知らず、父に噛みついた。

父は殺されたのではない。まさしく事故で死んだのだ。図らずもその事実は、刀利村の夜衆筆頭が至った覚羅聡の死因と合致したことになる。