第七十七話

「どうせ大勢で押しかけるだろうなって思ったからね。昨日電話があった後買い出しに行ったんだ」

「このペンションの中も綺麗だな。お前が掃除好きとは知らなかった。デカいのに大変だろ」

光はズボンを引っ張り上げて、部屋の中を見回した。朝の光に照らされても薄汚れている印象はない。

「俺が掃除好きそうに見える? ここは月に一度ハウスクリーニングを頼んでるんだ。一人でこんな広いとこ掃除するなんて疲れるしムリ。昨日はたまたまクリーニングが午前中来たんだ。ま、あんたたちはラッキーだったってことだね」

なるほどそうだったのか、と志門は納得した。この大きな建物の中を一人で掃除するなど有り得ない、と思っていたからだ。オレなんか自室の六畳間でも掃除すんの面倒だもんな。

志門と光が着替え終わった後、裕生がバスルームから出てきた。昨日買った服に着替えている。裕生はそのままキッチンへ向かった。可畏が部屋に設置されたサイドボードの上から黒いノートを手に取り、羅威の所へ行った。

「これが日記だ」

可畏が羅威の前に父の日記を差し出した。昨日は羅威が眠ってしまったため、渡すタイミングがないまま朝になってしまった。羅威は父の日記から、何を得ようと思っているのだろうか……。今の可畏には予測がつかなかった。

羅威は黒いハードカバーノートを、目を見張って見つめた。食事はパンの最後の一切れを口に入れたところだったが、その塊をゴクリと飲み込むのに、少し時間が掛かったようだ。自分で可畏に日記を持って来るように頼んだはずなのに、触れるのを恐れているように見えた。

羅威は日記に手を伸ばし、黒い表紙にそっと触った。それから意を決したように日記をつかむと、立ち上がって可畏と対峙する。

「……それじゃ、約束通り戟を渡すよ」

ズボンのポケットからおもむろに戟を取り出し、羅威はそれをつまんで兄の前に掲げた。キラキラと輝く戟は冬の朝の白い太陽の光を押しのけ、見る者を魅了した。光と志門も美しい煌めきに目を細めている。

可畏は先ほどの弟と同じように、そっと手を伸ばした。そこで羅威が言った。

「これを渡す前に最後の命令をする。可畏、未祥を抱け」

可畏はすべての動きを止めた。息をすることも出来ず、弟の顔を見る。

「お前何を……!」

光が大声で言った。台所で朝ご飯を作っていた未祥と裕生が何事かとやってくる。四人の男たちが立ったまま硬直しているのを見て、二人の顔もこわばった。裕生は一番近くにいた志門の横まで来て、顔を覗き込む。志門は驚愕と苦悩の入り混じった顔で裕生を見た。

羅威は日記を片手で抱え、もう一方の手に戟をつまんだまま冷たい目で兄を見ていた。

「未祥を抱けよ。伝説を全部、壊すんだ」

もう一度、羅威は命令した。可畏には弟の言った意味が分からなかった。ただ頭の中に多聞≠フ下知が駆け抜ける。イヤだと思うのに、どうやっても逆らえない。従わなければならない。未祥を、抱かなければ──。

可畏の心を自分のものではない意志が占領していく。激しく未祥を突き上げる狂おしいほどの幻影。愛ではない、ただのオスと化した、あさましい欲望のヴィジョン……。

それと同時に、ある映像も浮かぶ。赤ん坊の未祥。祥那≠ゥら未祥≠ェ現れたあの朝。でも今度見るその赤子は、もう未祥とは違う人物だ。

可畏はグッと、両手を握った。脚に力を入れ、動くまいと抵抗する。全身が小刻みに震えだした。歯をギリリと噛みしめる音がシンとした部屋に広がる。

氷のような視線で兄を見ていた羅威の目が、大きく見開かれた。他の四人も息をのんで可畏を見る。可畏の目から涙のしずくが流れ落ちた。ひとつぶ、ふたつぶ……。

次々と流れ落ちるその涙は、戟のひかりを反射して煌めきながら儚く消える。可畏の服にいくつも吸い込まれる光のつぶは、太陽や戟の輝きより神々しく見えた。

「──そんなに厭か? 未祥が消えるのが」

羅威は絞り出すような声で訊いた。可畏は目を閉じると、上をふり仰ぐ。未祥がいない世界など、俺にはあり得ない。でも命令は絶対だ。逆らいたい。逆らえない。

どうすれば──

「裕生、オレを頼む」

志門の声が隣に立つ裕生に届いた瞬間、その体は弛緩した。ゆらりとくずおれる志門の体を慌てて裕生が抱き留める。

志門は意思≠セけの存在になり、可畏に向かって宙を走った。羅威が命令を下したとき、金色の光のかたまりが可畏に向かって放たれるのが見えた。そのかたまりは可畏の頭にたどり着き、中で暗く光っている。もしあれが命令≠サのものなら、あいつさえ壊せば可畏さんは解放されるかもしれない……。

志門は神使の弾丸となって、可畏の頭の中を走り抜けた。光のかたまりに突っ込んだ途端、パンッと割れて暗い光が四方へ飛び散った気がした。一瞬の出来事だったので確認する間もなく可畏の頭から出る。

志門は素早く方向転換すると、裕生の抱きしめる自分の体に急いで戻った。目を開けた志門は、自分の片頬が裕生の胸に押し付けられているのが分かった。床に座った状態で裕生にもたれかかっている。

大急ぎで志門は体を離すと「ごめん!」と謝った。裕生はホッとしたように息を吐くと、短く頷き、可畏の方に視線を移す。

可畏は片手を額に当てて呆然と前方を見ていた。黒く素早い何かが頭の中を通り過ぎた気がした。その後、未祥を抱かなければ、という焦燥感が一切消えた。

可畏は長いため息を吐くとその場にしゃがみ込んだ。光と未祥が可畏の元へ駆けつける。羅威は志門へ顔を向けた。

「お前か……。多聞に戟を吐かせたことといい、きみには特殊な能力があるようだな」

「一か八かだったけど、やってみて良かったよ。これからあんたがどんな命令出しても、オレが壊すからな。無駄だよ」

志門は羅威を見つめて挑むように睨み付けた。羅威はそんな志門をただ静かに見返した。志門は戸惑った。絶対ケンカになると思ったのに、羅威は怒る気配もない。その目はあくまで冷静で、奇妙なほどの寂寥感を漂わせていた。

羅威はもう一度可畏に視線を転ずると、床にしゃがんだ可畏に向けて戟を放り投げた。可畏の横に一緒に座り込んだ未祥と光の目の前を、戟が弧を描いて輝きながら落ちてくる。

それが床にたどり着く直前に、可畏が手を出してキャッチした。小さな戟はシャラリと音を立て、可畏の手の中に納まった。