第七十三話

羅威は幼い夏の思い出を、そのまま映像で見ているような夢見る顔で語った。その後自嘲的な笑みを浮かべてクッションに頭をもたせ掛ける。

「バカバカしいって、分かってる。ペンションなんか買ったって、家族が元に戻れるワケがない。でも楽しかった。すごく……楽しかったんだ……」

羅威の声が途切れがちになってきた。可畏が見ているうちに瞼が閉じて眠りに落ちていくのが分かる。それでも羅威は何か言っていた。可畏は耳を近づけた。

「いい音だ。いい匂い……。今日のごはん……なに、かえで……」

途切れた言葉が、スゥ、という寝息に変わった。瞼の色が不安になるほど青い。可畏は羅威が何を言っていたのか、しばし理解できなかった。

その時台所から肉を焼く匂いが漂ってきた。トントン、とまな板の上で何かを切る音も響いてくる。料理の音はさっきからずっと聞こえてきていたはずだが、可畏にとってはあまりに当たり前の日常の音なので意識に引っかかっていなかったのだ。

でも羅威の言う通り、台所で食事が出来上がっていく音はいい音≠セな、と可畏は思った。自分の食べるものを作ってくれている音。愛する未祥が、美味しいご飯を頑張って作っている音。確かにこの音は暖かな安らぎを与えてくれる。

羅威は冴えない顔色をしていたが、無防備な様子で眠っていた。いきなり親しくもない人間が自宅に大勢押しかけているのに、安心しきっているように見える。

未祥と裕生が晩御飯を作り終えた時も、羅威は目を覚まさなかった。起こすのも可哀想なくらいグッスリ眠っていたので、結局食事は五人で摂った。

カウンターキッチンの前に置いてあるテーブルには椅子が四脚しかなかった為、可畏がひとり絨毯の上に座卓を置いて羅威の様子を見ながら夕飯を食べた。料理はどれも美味しかった。可畏には食べなれた味だが、他のメンバーはひたすら感心していた。未祥は褒められるたび、嬉しそうに微笑んだ。

「それにしても、よくこんなに材料があったな。羅威の奴、買っておいてくれたのかな」

ポークソテーにかぶり付きながら光が言った。未祥と裕生は目を合わせて首をかしげた。

「多分、そうだと思います。お肉のパックは日付が新しかったし、まだ食材は結構残ってますよ。たくさん人が来ることを見越して、用意してくれたとしか思えないんですけど」

答えた未祥は、自分の手首の傷を見て複雑な気持ちになった。羅威の事はイヤな奴、怖い人だと思っていた。でもずっと家のことを取り仕切ってきた未祥は、食材を買うのがいかに大変か良く分かっている。

未祥は今まであまり外に出られなかった為、生協やネット宅配を利用して食材を買ったが、材料を選んだり、宅配されたものを冷蔵庫や棚に仕舞ったりするだけでも、結構面倒な作業なのだと知っている。日々の食事を決める主婦たちがいかに苦労するか、身を以て理解しているのだ。

羅威はかなりの物を買い出しに行ってくれた。あんなに具合が悪そうなのに……。未祥の羅威に対する感情は、不快感と有難さが変に入り混じる奇妙な感覚になった。

「裕生は何を作ったんだ?」

ホワイトシチューを綺麗にたいらげた志門が裕生に訊いた。裕生は志門に向かって手を差し出してから「おかわりがしたいなら余計な事を言うんじゃない」と言った。志門は裕生に皿を渡すと、未祥に視線を投げた。

「裕生ちゃんは……えっと、シチューをかき混ぜてくれたよ」

未祥が微妙な笑顔で答えると、志門は軽く噴き出した。志門の皿に新たにシチューを盛り付けた裕生が戻ってきて、頬を膨らませてから志門に皿を渡す。そして椅子に座りながら志門に向かって言った。

「未祥はすごいんだよ。普通シチューってシチューの素≠使って作ると思うでしょ? でも肝心な素≠ェここにはなかったから、小麦粉と牛乳とバターでその状態にしちゃったの。

それもわざわざホワイトルゥを作るんじゃなくて、玉ねぎをバターで炒めながら小麦粉を練りこんで牛乳で伸ばしてサッと作っちゃった。市販の素≠カゃないから余計な添加物入ってないし、すごく美味しいし、ホントに料理が上手なんだ」

「へえ、すごいな。うちの母はいつも市販のシチューの粉を使ってるよ。他にやり方があるなんて知らないんじゃないかな」

感心しながら志門がシチューのお代わりを口に運ぶ。確かに母親が作るシチューとは味が違うと思った。未祥ちゃんの作ったものはコクがあって美味しい。

「羅威さんが調子悪そうだからお腹に優しいものがいいと思ったの。実は野菜のコンソメスープも作ったんだ。羅威さんの好みが分からなかったから、選べた方がいいと思って」

「俺はそのコンソメをお代わりだ」

光が空になったスープ皿を未祥に差し出した。未祥は笑って受け取ると、可畏の方にも目を向けた。可畏も綺麗になくなった皿を手に持って待っている。未祥は可畏のいる場所まで行って皿を受け取り、羅威の様子を見た。

羅威はクッションソファからずり落ちて、絨毯の上に丸まって寝ていた。まさに眠りこけている≠ニいう感じだったので、食事は起きてからしてもらおうと、そのままにした。