第七十二話

「この家はどうした? お前が買ったのか?」

光がまだ渋面のまま腕を組んで羅威に訊いた。

「今は俺の名義だよ。でも六年前に買ったのは母さんだけど」

「おふくろさんが……? この家を選んだのか?」

「ちがう、ちがう。俺が中学を卒業するころ、母さんは一番病状が酷かったんだ。村のみんなから冷たい目で見られるのがイヤで、引っ越す場所を探してたのは俺だよ。俺は一応羅衆の長兄の血を引いてるから、基本、村から出られないってしきたりだろ? 

だから村の近くに出来た別荘を選んだんだ。家の契約は母さんに暗示をかけて代行してもらった。やっぱりそういうことはオトナじゃないと無理だからね」

「でも金は……あ」

言いかけて光は、羅威にはかなりの資産があることを思い出した。祥那が最後に残したお金――あれで羅威はこの家を買ったのだ。羅威は急に黙った光を少し怪訝な顔で見返したが、そのままダルそうに話を続けた。

「俺が中学に上がって母さんが変な行動を取るようになった時、お金のことが分からなくて家の中を探ったことがあったんだ。そこで俺の名前の通帳を見つけた。スッゲー数字が見えてビビったよ。それと一緒に母さんの通帳も見つけたけど、毎月二十万のお金が振り込まれてたんだ。

母さんはずっと仕事してなかったから、生活費は全部振り込まれたお金から出てたって分かった。それが親父の仕業だってことは、すぐに気付いた。だから一瞬、通帳なんか燃やしちまえって思ったんだけど……」

羅威は息をつくと、ブランケットを肩まで引き上げた。ますます気分が悪そうに見えた。

「通帳燃やしたって銀行にはお金残るし、実際メシも食わなきゃなんないしさ。親父は憎いし許せないけど、金は別に憎くないって思い直したんだ。

そのまま俺が金の管理して、高校に上がる前、この場所を見つけた。ここも実は中古なんだ。前のペンション経営者がオープン二ヶ月目に心臓発作で突然死したらしくてさ。安く売り出されてたんでラッキーだったよ。

何でもそうだけど、新品で手に入れる時は高くても、手放す時は価値が下がるだろ? 元の持ち主には気の毒だけどさ」

「でも何だってまたこんなデカい建物を……」

光は顔を上にあげて周りを見渡しながら訊いた。羅威は質問した光ではなく、可畏に目を向けて言う。

「何も思い出さない? このペンション見ても」

可畏は真顔になって口を閉じた。それからいぶかしげに辺りの風景を見渡す。部屋の中を見ても特に何も思い当らなかった。

「その様子じゃあ、記憶にないんだね。……そうだよな。結局、そんなもんなんだよな……」

最後の方の言葉をささやくように吐き出しながら、仰向けの羅威は手で両目を覆った。可畏は奇妙な焦りを感じた。

俺は何を忘れているんだ? 
ペンション──宿泊施設……泊まる? 
俺はペンションに泊まったことが……

「あ……っ」

あるおぼろげな記憶がよみがえって可畏は声を上げた。確かに一度、家族でペンションに泊まったことがある。古い写真のような遠い思い出。

双子なのに自分よりひと回り体の小さい羅威が笑っている。痩せていて、入院ばかりしていた弟が珍しく元気な様子。三歳か──四歳くらいだろうか。たまにはどこかに泊まりに行こうと、仕事を休んだ父。

父さんも笑っている。家族サービス出来ることが嬉しくて、羅威が少しでも元気になったことが嬉しくて、大きな荷物を抱えて俺と羅威を呼んでいる。

青い空。夏の日差し。蝉の鳴き声。カントリー風の可愛いペンション。咲き誇るひまわり。草いきれ。そして振り返ると……。

そこで可畏の記憶は突然、真っ暗になった。見たくない記憶。思い出すのが苦痛な記憶。あれ≠フせいで俺は家族でペンションに泊まった思い出をシャットダウンしていたんだ。

あれ≠ヘ母親の顔だった。

母さんはあの旅行の間ずっと、機嫌が悪かった。羅威の体調を考慮してあちこち遊びに行くようなことをせず、同じペンションに三泊ほどしたのではなかっただろうか。

羅威はペンションでの食事をとても喜んで食べていた。おいしいね、おいしいね、と何度も言っていた覚えがある。

羅威がそう言う度、母の眉間にしわがよる。あのペンションの前にも大きな芝生の庭があった。そこで双子は父とキャッチボールをした。弟はすぐ息が切れてしまったけど、芝生に寝転んで大笑いしていた覚えがある。

そんな子供たちの様子を見ながら、母はずっとため息をついていた。羅威がはしゃいで自分の言うことを聞かず、母から逃げ回るのに対して異常なほど叱りつけていたのも思い出す。可畏はいつも面倒を見てくれる祖母がいないことが心細くて、父の後ばかりついて回った。

楽しいはずのお泊りが幼い可畏にとっては手放しで喜べないものだった。だから記憶から排除していたのかもしれない。

「俺さ……あの時、家族でペンションに泊まった時、すごく楽しかった。四人で旅行したのはあれだけだっただろ? 俺の小さいころの思い出は病院のにおいと白い天井ばっかりだけど、あの夏の記憶は色があるんだ。

白でも、灰色でもない。青と緑と黄色と赤──もっと、他にも……。この建物を初めて見た時、どうしても欲しくなった。あの時泊まったペンションみたいなとこに、住めたらいいなって思ったんだ」