第七十一話

それだけいうと羅威は、飲み終わったカップを可畏に渡し、またクッションに寄りかかった。自分の体重をクッションに任せた事で、羅威は大きく息をつく。見るからに苦しそうだったが、今の答えを聞き捨てにする訳にもいかなかった。可畏は弟の肩をつかんで訊いた。

「どういうことだ? 遠くって」

「彼の岸」

「……かのきし? 彼岸か?」

「そうだよ。死んだんだ、一年ちょっと前に」

二人分の、息を飲む気配がした。可畏は吸い込んだ息を溜めたまま弟を見た。光はコーヒーと一緒に衝撃を飲みこんだ。志門だけは、やはり、と思った。ここに入ってすぐ分かっていた。この場所にはひとりしかいない。もう一人の気配は、疾うにここからかすれてしまっている気がした。

「死んだって……葬式はどうしたんだ?」

光がこわばった顔で訊いた。いくら何年も前に村を出たとはいえ、羅威の母親は刀利村の出身なのだ。羅威は誰の助けも借りず一人で葬式を出したのだろうか。

「葬式は出してないよ。焼き場に行って、燃やしただけ。墓はちゃんと買ったけどね。ここの近くに無宗教の墓が売り出されてたから二年くらい前に買ったんだ。骨はそこに入れたよ」

「そんな……なぜ刀利の柴山の墓に入れなかった? それに──それにお前はなぜ親が死んだような大切なことを村に知らせないんだ。親戚もたくさんいるんだぞ」

表情も険しく、光は羅威に問い詰めた。羅威は怠そうに光を見返した。

「光さん、あんたは幸せなんだ。ソーシキだのシンセキだの、そういうことを気にするのは幸せな人間のすることだ。母さんの親はもうとっくに死んでるんだよ? 俺がお骨を持って帰っても柴山の人たちは迷惑するだけだろう。

母さんがおかしくなって変な行動をとるようになった時、困惑して遠巻きにしたみたいにね。俺はもう成人してるし、ひとの助けは必要ない。法律的にも何の問題もなく、母さんはしっかり死んでるんだよ」

「そんなことを言ってるんじゃない!」

突然の光の怒声に、羅威は半分閉じていた眼を見開いた。可畏も双子だけあって全く同じ顔で光を見ている。志門は両手でココアの入ったマグカップを抱えたままその場で固まった。台所での物音も止んで、部屋の出入り口から未祥と裕生も顔を覗かせている。

光は歯を食いしばってマグカップを下に置くと、可畏の隣まで移動して羅威に向かい合った。

「お前は……実の母親の死を、ひとりで耐えたのか? たったひとりで、親の死に向き合ったのか? どうして村に知らせない。どうして俺に言わなかった。どうしてひと一人の死を、全部ひとりで抱え込んだんだ。

人間の死は重い。どんな人間が死んだとしても、それは独りで抱えるもんじゃないんだ。俺がいるのに、お前は村に来ていたのに、なんで頼ってくれなかった? お前ひとりで全部片づけたなんて、辛すぎるだろう。俺が知っていたら、そんな残酷なことは絶対、させなかったのに!」

切々と訴える光の目には、薄く涙が光っていた。羅威はクッションに寄りかかった状態で、圧倒されたように光を見ていた。肩で息をしながら、今更どうにも出来ない憤りになんとか耐えている光を目前にして、羅威はフッと緊張を解くと細い笑いを浮かべた。

光の後ろから羅威を見ていた志門は、なんとなく羅威の姿がぼやりと霞んだような気がした。儚げな微笑は奇妙なほど透き通って見える。

この人は……、と志門は思う。このまま薄く空気に溶けて、消えてなくなってしまいそうな気がする。

「光さん、あんたってホント……お人好しだな。くそったれなくらい、好いヤツなんだな……」

言いながら羅威は目を閉じた。怒られているのに、幸せそうな顔だった。羅威は重そうに体の向きを変えると、兄に向って話し出した。

「母さんと一緒にここに住んだのは、ほんの数日だけなんだ。変な行動を取るようになって村のみんなに迷惑をかけるのが嫌でここに引っ越したのに、油断すると刀利に戻ろうと徘徊するから結局入院させた。

俺の通ってた高校の近くにある厚生病院にずっといたんだけど、一年二ヶ月前食べ物をのどに詰まらせて死んだんだ。事故だと思う。最後の方は俺の事もよく分からなくなってたから、大して悲しいとも思わなかった。ただ──遺骨を見たのは……やっぱりキツかったかな」

淡々と話していた羅威だったが、その手はかすかに震えていた。光の言う通りだ、と可畏は思った。人の死は重い。自分自身も四年前に父を亡くしているが、俺には未祥がいた。一緒に死を悼むことのできる人間が、ちゃんと近くにいたのだ。

未祥を守らなければ、と思うことで俺は立ち上がることが出来た。それでもつらくて、つらくて、何度夜中に目覚めたことか──。羅威は本当にあの苦しみを、ひとりで耐えたのだろうか。

「すまなかったな、一人でやらせて。俺の母親でもあるのに……」

「そんなに気にすんなよ、──光さんもさ。納骨が終わった後は俺も独りでいた訳じゃないし。ずっと女のとこに転がり込んでたから」

「恋人がいるのか?」

「まさか。ただのH友達だって。今どきの女にしちゃ血の味も良かったし、料理も上手かったから選んだんだ。今は連絡もとってないよ」

なげやりな調子で羅威は言ったが、その目には言葉と違う気持ちが見えた。双子の兄としての勘だが、羅威はその女性を忘れていない気がした。