第七十話

「歩けるか?」

可畏が訊くと、羅威は目を閉じてうなずいた。顔色は青く、気分が悪そうだった。可畏はサッと部屋の中に目を通した。広い部屋の中に入ってすぐには、木で出来た大きいテーブルと椅子が四脚セットになって置いてあるのが見えた。

奥の方は絨毯が敷かれ、色とりどりのクッションソファがいくつか置かれた、くつろげる場所になっている。可畏は羅威に肩を貸しながら絨毯の上を目指した。

歩いていると足の下から暖かさを感じた。どうやら床暖房がきいているようだ。暖房は床だけではなく、排気が外に出るタイプの大型ヒーターが窓際から暖かい空気を吐き出している。

絨毯の横の壁には暖炉が設置されていて、煉瓦で縁取られた暗い空間が口を開けていた。使えそうな暖炉だが、火はついていなかった。可畏はふんわりと弾力のあるモスグリーンの絨毯に足を乗せ、羅威を慎重にクッションの前に座らせた。

ゆっくり羅威をクッションに寄りかからせると、額に手を乗せた。熱のある熱さは感じず、逆に奇妙なほどの冷たさが伝わってくる。羅威は眉根を寄せ、目を閉じていた。さっきまで裕生に憎まれ口を叩いていたのがウソのようだ。

「可畏さん、これ……」

声がしたので振り返ると、すぐ後ろに裕生がいた。手には大きめのブランケットをもっている。

「すぐそこに置いてありました。多分、いつも使っているものだと思います」

可畏はうなずくと「ありがとう」と言ってから羅威にブランケットを掛けた。羅威は動くのがつらいのか、それとも動くことが出来ないのか、横たわったきり微動だにしない。

可畏はもう一度後ろを見た。絨毯の敷かれていないフローリングの上に、精悍な眉を心配そうにひそめた志門が立っていた。その横で光が腕を組んで、難しい顔でこちらを見ている。

裕生は二人の後ろの、今いる部屋と続き部屋になっているらしい出入り口に入っていく所だった。木のテーブルが置かれた横の壁は四角く切り取られ、裕生が向かった隣の部屋とつながっている。

隣の部屋からはカチャカチャと食器を動かす音がするので、いわゆるカウンターキッチン形式になっていると分かった。どうやら未祥は、この部屋の隣が台所だったので何かやっているらしい。

可畏は光と志門を手招きすると、絨毯の上に座るようにうながした。まず、光が空いているクッションを引っ掴んで、長々と横たわる羅威をよけて絨毯の奥に移動した。

志門はそのまま光を追いかけ、どっかりとクッションに寄りかかる光の横にチョコンと正座した。可畏はそんな志門に空いているクッションを渡すと、「脚くずしなよ」と言った。志門は有難くその言葉とクッションを受け取ったが、正座からあぐらに変えただけでクッションは使わなかった。

可畏は医学の知識はまったくなかったが、一応羅威の脈を取ってみた。手首に指を三本当ててみる。トクトクいう脈は、自分の脈より速かった。でも羅威の手首から自分の手首に指を当てると、羅威の方が早いのに、力強さが感じられない気がした。可畏はほとんど無意識に羅威の腕をさすり始めた。

台所の方から、軽い足音が二つ近づいてくるのが聞こえた。可畏は弟をさする手を休めずに首だけ音の方に向けた。未祥がお盆にマグカップをいくつも乗せてやってきた。

「冷蔵庫とか、戸棚を探ったら色々あったから作ってきたの。羅威さん、何か飲めそうかな?」

愁眉を浮かべて羅威の様子を見ながら未祥が言った。自分に危害を加えた相手であったが、一応謝ってくれたし、具合が悪そうなのに放っておくことが出来なかった。ホットミルクとミルクティー、インスタントの蜂蜜レモン、ココア、緑茶、コーヒーを用意して持ってきた。

可畏は弟の額にもう一度手を当て、顔を覗き込みながら「何か飲めそうか?」と訊いた。羅威は重そうな様子で薄く目を開けた。でもまたすぐに目を閉じてしまった。飲めないのかと思ったら「……ミルクティー」という羅威の小さな声が聞こえた。

可畏が振り返ると、未祥はホッとした顔で微笑を浮かべた。羅威が身を起こそうと頭をクッションから上げたので、可畏は手を添えて手伝った。未祥が作ったミルクティーを羅威は少しずつ飲む。他の飲み物もそれぞれに渡った。未祥はホットミルクを持つと、立ち上がった。

「羅威さん、ここにある食材もらってもいいですか? あたし晩御飯作ってきます」

羅威はカップに口を当てたままボンヤリ未祥を見つめた後、頷いた。未祥が台所に向かうと裕生も蜂蜜レモンの入ったカップを持って後に続く。可畏は弟のすぐそばに片膝を立てて座り、緑茶を一口飲んで話しかけた。

「ずいぶん体調が悪そうだな。いつからだ?」

羅威は赤くこごった眼を兄に向けると、見た目の弱々しさとは裏腹に皮肉気な笑いを浮かべて言った。

「俺は生まれて此の方、一度も体調が良かったことなんてないよ」

サラリと告げられた言葉は、大げさには聞こえなかった。羅威は目を閉じてまたミルクティーをすすったが、暖かい飲み物をとっている割には、一向に生気が戻ったように見えなかった。

羅威の青白い顔と父親の日記を思い出して、可畏の心はザワザワと波打つ。母の病気が弟をこんな風にしたのか……。そこで可畏は肝心な事を忘れていることに気が付いた。

「羅威……その、母さんは? ここにいるんだろ?」

羅威はカップから顔を離すと兄を見た。疲れて潤んだ瞳はなんの色も映し出さず、空虚な感じがした。

真っ直ぐこっちを見ているはずなのに、捉えどころのない目──。可畏は胸の奥のザワつきが、より酷くなるのが分かった。

「──母さんは、遠くへ行ったよ」