第六十六話

「外の世界は怖い」と祥那は言うようになった。

祥那に同情して、慰めてくれる主婦もいたようだが、祥那は信じられないと言った。笑顔の裏の、本当の気持ちは分からない、と。

祥那は自分の知識と経験のなさを、情けないと思ったらしい。人との距離の取り方も、その場の空気≠察することも、そういう中でも、自分らしさ≠出していく必要があることも、祥那には難しいことだったのだ。

祥那はふさぎ込んで、部屋に閉じこもるようになった。幼稚園が冬休みの可畏も、外に連れてもらえず、勢いテレビを見たりゲームばかりするようになった。

祥那は、私はお母さん℃ク格ね……と言った。その顔は無表情で、怖いくらい依子を思い出させた。

おれは時間がある限り、祥那を抱きしめ続けた。「ゆっくりでいいから、慣れていこう」そう言って、寄り添った。祥那はおれに力なく寄りかかるだけだった。

そしてあの日──。

夜、ベッドの上で祥那は言ったのだ。「わたしを抱いて下さい」と。それから祥那はこう続けた。

「どうか新しいわたし≠、育てて下さい。少しでも知識のある人間≠フ生活が出来る女にしてください。十六までしか成長出来ないことは分かっています。でも、普通に学校に行って、みんなと同じように勉強することが出来れば、生きていく術を身につけることが出来ると思うの。

正しいこと、間違っていること、真っ直ぐなこと、嘘をつくこと……。そのすべてを少しでも理解できる人間になりたい。わたしが──」

そこで祥那はおれの手を握った。穏やかな微笑を浮かべながら。

「わたしがあの村からここに来たのは、その為だった気がするの。ただ逃げただけではダメ。比丘尼≠ニいう称号を捨てて、一人の女として生きるためには、一度すべてを断ち切らなければ。あなたにそのつらい役をやらせるのは……本当に申し訳ないと思います。

でもどうか生まれ変わったわたし≠、あなたの手で育てて欲しい。わたしは祈りを込めます。生まれ変わった子が、強くなれるように。伝説すら乗り越える、新しい存在になれるように」

柔らかに微笑みながら、祥那は涙を流した。そしてベッドの上にパジャマを脱ぎ捨てた。おれは拒否した。最後の最後まで。祥那はおれの頬を両手で包むと、涙を流しながら言った。

「わたしは一度も、愛する人と完全に一つになれたことがないの。わたしはあなたが欲しい。──そして……任せましょう。子供たちに未来を託しましょう。可畏と、新たに生まれる比丘尼がきっと、新しい世界をつかんでくれるわ」

祥那はあたたかかった。美しかった。おれの祥那……。

おれに、天罰が下った。家族を壊したおれに神が与えた罰。おれは祥那を、愛する人を失った。】



<三月三十日>

【赤ん坊は順調に成長している。当たり前だが、祥那によく似ている。名前を「未祥」にした。慣例に従って祥≠フ字を入れたが、おれなりの思いを込めた名にした。

「未だ祥∴ラらず」

未祥には過去の比丘尼のような人生を送ってほしくない。未来永劫、刀利村の比丘尼と同じ運命を辿らぬように、との思いを込めた。そしてもう一つ、まだ来ぬ明日に、多くの祥≠ェあるようにという意味もある。

可畏は未祥が可愛くて仕方ないらしい。祥那が突然いなくなり、急に現れた赤ん坊に最初戸惑ったようだか、子供なりの柔軟さですぐに未祥を受け入れた。祥那がいないことで、可畏はかなり泣いたらしい。おれの前では一度しか泣かなかったが、夜に寝ながら泣いている時もある。

可畏からは二度も母親を奪ってしまった。育ててくれた祖母からも引き離したのだから、想像を絶するほど寂しい思いをしただろう。この子たちを幸せにしたい。今度こそ、おれは間違いたくない。

刀利の追っ手にはまだ油断できない。祥那が託してくれた新しい未来≠、おれは守っていかなくてはならない。

それがおれに……情けなく力のないおれに、残された使命だ。】



<四月十四日>

【先週、祥那が使っていた鏡台の引き出しから、昨年の年末ジャンボ宝くじが見つかった。連番の十枚の袋が三つ、入っていた。すべてが一等を当てていた。祥那が最後に力を振り絞って残してくれたと分かる。

おれは最初、むなしかった。おれが欲しいのは金じゃない。金なら自分で働いて稼いでいるし、それほど不自由もしていない。祥那の代わりにこれが残ったのだとしたら、忌まわしいものにすら思えた。

でも、しばらくして思い返した。これが祥那の出来る、精いっぱいのことだったのだ。祥那にしっかり出来ること≠ヘ宝を授けることだった。他の事は分からなくても、それだけは確実に成し遂げることが出来た。

人間はどんなことでも「得意なこと」があると嬉しい。祥那はきっと、お金を残すことに自分の存在の意義を込めたのだ。それをおれが水の泡にしていいわけがない。

おれは有難く、その金を換金させてもらった。銀行の人間は驚いていたが、一生分と来世の分の運を使い果たしたんだ、と言ったら笑った。不正をしようにも不可能なことなので、銀行員もそれ以上追及しなかった。

一等の二つは、羅威の名義にした。通帳と印鑑を郵便で送った。依子がどうするか分からないが、例え通帳がなくなったにしてもあの金は羅威のものだ。こんなことしかできない父親で申し訳ない。でもおれは必ずいつか、羅威に会いに行く。可畏と羅威と未祥。三人の未来が明るいものであることを祈る。


祥那。

君が未祥になって、おれは寂しくてたまらない。肉体を残して消えてしまった比丘尼たちは、一体どこに行くのだろう。人間と同じように、極楽や天国に行けるのだろうか。

この星空に、青空に、君は昇って行ったのだろうか。

そこは綺麗かい? 
そこから、「ほんとの空」は見えるかい……? 】