第六十五話

<一月二十五日>

【これは罰だ。天罰が下ったのだ。おれはなんという愚か者なのだろう。祥那……、祥那がいない。もう、祥那には二度と会えない。

分かっていた。分かっていて、祥那を抱いた。望んだのは祥那だ。祥那は泣いて頼んだ。「わたしを抱いて下さい」と祥那は言った。拒絶するべきだった。でも出来なかった。祥那の苦しみが分かったから。そして、愛していたから。

今、おれの部屋には乳児がいる。さっきミルクを飲ませたから、ぐっすり眠っている。愛らしい子だ。目を開くと祥那の面影が映る。美しい天女。それが故に、呪われた淑女──

何から書いたらいいだろう。こうしてこのノートに書くのは久しぶりだ。夏の暑い日に刀利村を出た理由を書いたきり、日記を書くことはやめていた。

あれを書き上げたことで、なんとなく気力が尽きた気持ちもあった。でも何より、おれは穏やかな幸せに浸っていたのだ。

小さな不安はあるものの、生活は順調だった。可畏は元気に育ち、来年から小学校に入学するための就学時検診も無事終わった。おれも仕事に慣れて、毎日朝出勤し、夜家に帰るのが楽しみだった。

月並みな生活。普通の生活というものを、この数か月思い切り味わうことが出来た。祥那は慣れないながらも料理を覚え、家事をこなし、テレビを見て笑い、可畏と一緒に遊んだりする日々を送っていた。郵便物を出すことや、新聞広告を見ることも、祥那には新鮮で楽しかったようだ。

問題は近所付き合いだった。祥那は人と接することに慣れていないので、表に出るのはおれの役目だった。回覧板くらいは祥那が回していたが、病弱という理由で会合などには出なかった。おれはそれで良かったし、特に不都合はないはずだった。

それでも祥那には、おれが分からない悩みがあったらしい。それは小さなことで、でも徐々に祥那の神経を蝕んでいった。集団で立ち話をする近所の主婦。その視線。中山夫人のあからさまな中傷……。

外で働く男には、理解することが困難な雰囲気。その微妙な圧迫感≠ェ、詰まる所、祥那を追い詰める原因になったのだ。

実際、祥那に決定的な打撃を与えることになった出来事は、中山家との確執にあった。確執などといっても、こちらには中山家に害意をもったことはない。中山夫人がほぼ一方的に祥那に敵意に近い感情を抱き、攻撃したとしか言いようがないのだ。

祥那の事を、中山夫人が悪意を持って近所の人とうわさ話をしていたのは、なんとなく分かっていた。祥那は中山夫人と仲のいい近所の主婦から、挨拶もしてもらえないとこぼしていたことがある。

町内会費の集金の回覧を飛ばされて、あの女はワザとお金を納めない、などと酷い噂を流されたりした。町内一斉清掃が雨で延期になった時も、連絡網を回してもらえず変更日が分からなくなり、参加できなかった。後日協力的でない≠ニ言われ、「綺麗な奥さんは手を汚したくないんでしょ」とまで罵倒された。

おれが苦情も交えて会長に相談すると、さすがにそんな嫌がらせはなくなった。そうすると今度は子供に可畏を虐めさせた。

可畏が公園で遊んでいると、中山さんの子供が砂をかけて来たり、おもちゃを壊したり、突き飛ばしたりする。可畏は黙って耐えていたが、中山さんの子供がブランコの順番を守らず横入りした時、「ちゃんと守ってよ」と言ったら、顔を引っ掻かれた。

可畏の頬には血が滲み、思わず可畏は相手を蹴った。可畏には鬼術を教えているので、攻撃は的確だった。中山家の子息は尻餅をつき、手に擦り傷を負った。中山夫人は激怒した。祥那に土下座して謝らないなら訴えるとまで言ったそうだ。

たまたまそこにいた主婦の中に良心的な人物がいて、可畏ちゃんも顔から血が出ているのだからお互い様では? と助言してくれた。中山夫人は引き下がったが、その後あの言いがかりをつけてきたのだ。

十二月の会合で、中山夫人は会計の金額が合わないと言った。出納帳の残高より現金が足りないという。中山夫人はあろうことか、「覚羅さんの奥さんに一度町内会費を預けたことがあって、返してもらってから合わなくなった」と言ったのだ。

おれは呆然とした。もちろん、中山さんから町内会費を預かった覚えはない。祥那もそんなことがあれば、必ずおれに伝えるはずだ。

おれが「会費は預かっていない」ときっぱり言い切ったら、中山夫人は狼狽した。町内の人々も、中山夫人が祥那を毛嫌いしていることは知っているから、会費のような大切なものをわざわざ預けたりするのはおかしい、と判断したようだ。

みんなは半ば呆れ気味に、中山夫人に「思い違いでは?」と言ってくれた。中山夫人は急に勢いを失い、もう一度調べます、と、小さな声で言葉を濁した。

後で中山さんの旦那さんが、会計のことはうちの家内の間違いでした、とみんなに謝って回った。でもうちには来なかった。

この一件はそれで一応落着したのだが、祥那はかなり精神に打撃を受けてしまったようだった。