第六十四話

「──思ったよりずっと、深い理由があったな。俺も親父も、羅衆当主の失踪は比丘尼の為だけだと思ってきたが、事はそれだけじゃなかった訳だ。その日記は貴重なものだぞ。日記がなかったら、真実は分からないままだった」

光が言うと、可畏がため息交じりに後を継いだ。

「確かにそうだな。俺もずっと、父は祥那の為だけに村から出たと思ってきた。俺は母親から可愛がられなかったから離れても悲しいと思うことはあまりなかったけど、心のどこかで父は家庭を壊すような人間だったんだと思い続けていた気もする。日記がなければこれからもそう思っていただろう。……父さんも、苦しかったんだな」

許してくれ≠ニ書いた父の痛みを、可畏は胸に刻み込んだ。そして日記を書くことは軽視出来ないな、と思う。表面上では覚羅聡が村から失踪した、という事実は変わらない。でも見えなかった真実や苦悩を日記から知ることで、今までとは違う気持ちで父を思い出すことが出来る。

それはとても個人的なことで、世界を変えるようなものではないが、心の持ち方一つで記憶の中の人物の認識がガラリと変わった経験が出来たのは、新鮮だった。

今度羅威に会う時は……と可畏は思う。もっと違う気持ちで、あいつの顔を見る事が出来るだろう。

「残りは祥那再生の真実だな。とりあえず出すものを出そう。俺はトイレに行くぞ。みんなも今の内に済ませておいた方がいい。志門、上着を取ってくれ」

光に頼まれ、志門は上着を取った。他のメンバーにも上着を配り、みんなで外に出た。太陽はかなり西に傾き、夕方の空気は車内のぬくもりを体から奪っていく。

可畏は未祥と並ぶと肩を抱き寄せた。未祥は涙で濡れた目で可畏を見上げ、可畏の腰に腕を回した。光の言う祥那再生の真実≠ヘ、未祥誕生の真実でもある。

未祥は自分が祥那から生まれ変わったのは、祥那が多聞以外の男に抱かれたからだと今では理解している。聡おじさんが祥那を抱いたのだとしたら、愛する人を失うと分かっていて交わったことになる。その事実を知るのは、正直怖かった。

未祥は可畏に回した腕に思わず力を入れた。高速道路のサービスエリアに集う人々が、みんな幸せそうに見えてしまう。本当は一人一人、色々な事情を抱えているのかもしれないが、それでも自分の様な特殊な人間はいないだろう。

何度生まれ変わったのか分からないこの躰。それを愛してくれる可畏の存在が胸が痛くなるほど大切に思えた。可畏はしがみつく未祥の肩を強く抱いた。未祥は心細さを隠して、可畏を見上げて少し笑った。

男女に別れてそれぞれがトイレを済ませた。可畏は一足先に、コンビニに足を運ぶ。目当てのものがあるのかどうか不安だったが、幸いそれは売っていた。これがどこまで役に立つのか……と多少の危惧は浮かんだものの、とりあえず二つ購入した。

車に戻ると高校生組は既に待っていた。可畏は急いで車の鍵を開ける。「ごめん、寒かっただろ?」と声を掛けた。

「いえ、まだそれほどでも」と志門が答えると「若いもんはいいな」と可畏の後ろから声が掛かった。光は手に買い物袋を提げて現れた。可畏が視線を送ると、光は袋を持ち上げ「地酒を買ってきた。味を見てみたくてな」と言った。

「そうか。……光は凄いな。あの村で出来る事を見つけて、酒造りを仕事にしてる。そうやって地に足を付ける事が出来るのは本当に凄いことだと思うよ」

可畏は言いながら、父の日記に出てきた言葉を思い出した。刀利村が自立できるようなことを誰かが始めて欲しい、という主旨の事が書かれていたはずだ。

光とその仲間たちは自分の力でそれを実行している。強制されたわけではなく、自らの手で物事を実行し、それが収入に繋がっているというのは尊敬に値すると可畏は思った。

「最初は苦労したけどな。俺は無類の酒好きで、たまたまあの鈍くさい村が酒造りに向いていたからやる気になったんだ。今は仕事が軌道に乗ってくれて有難い。うまい酒も飲めるしな。可畏も好きなことを仕事にしろ。それが人生を楽しむ究極のコツだと思うぞ」

「うん。そうしたいな」

可畏は歴史書に埋もれている時が一番幸せだった。もちろん未祥を腕に抱いている時が至福の時間ではある。でも人間は好きな人と抱き合う≠アとだけで自己を形成することは出来ない。

父の日記の内容を知ることで、過去の出来事を知ることが出来たことは、歴史を資料で学ぶことと根底で繋がっている気がした。記録があるから、過ぎ去った出来事を振り返れるのだ。可畏は大学院修了後の進路を、一般企業への就職ではなく研究室に残る方向で考えてみようかな、と思った。

五人はまた車に乗り込んだ。「運転変わろうか?」と光が可畏に声を書けると、志門が青くなった。光の運転では、日記の文字を追うことは困難だ。というか、揺れながら文字を読んだら吐くかもしれない。

「大丈夫だ。目的地まで後一時間ちょっとだからこのまま行くよ」

可畏が言ってくれたので、志門は密かにホッと息を吐いた。車は滑るように動きだし、加速車線でスピードを上げて本線に合流した。志門はまた分厚いノートを開く。

「じゃあ、続きを読みます。……あ」

志門が急に言葉を詰まらせたので、みんなが注目した。

「どうしたの? 志門くん」と未祥が声を掛ける。

「ええと、その……ここの紙がちょっと皺になってるんで……。なんか、濡らした紙が乾いてゴワゴワになったような感じなんです。多分──」

志門は言いよどんだ。なんとなく、見てはいけないものを発見してしまい、それを告げ口するようで申し訳ない気がした。でも今更後に引けない。志門は思い切って言葉を続けた。

「多分、涙の痕だと思います。このページは……泣きながら書かれたような気がします」

一同はシンとした。未祥は可畏とルームミラー越しに目を合わせた。お互いの目の中に、緊張が走るのが見えた。可畏は前方に意識を戻すと、志門に続きを促した。

「……読んでくれ、志門くん」

志門は息を吸い込むと、ノートの字を追いかけた。四人の耳に届いた志門の声はさっきより固く、重く聞こえた。