第六十三話

一番のネックは多聞の呪縛≠セ。これはどこまで有効なのだろう。そこで俺はある実験をした。

多聞からは祥那の恵み≠ノより授かった岩から「鉱石を掘りだして持って来い」と命令されたが、「鉱石を盗むな」と言われたわけではない。

それを例にとって原石を盗み出してみることにした。おれは仕事の時、掘り出した金や、ルビーの原石をそっとポケットに仕舞った。何が起こるのかと緊張したが、結局何も起こらず、そのまま家に帰ってくることが出来た。

祥那のことも「逃げ出さないように見張れ」と言われただけで、「連れ出すな」「村から出るな」とは言われなかった。

ちゃちな言葉遊びのようだが、直接的な言葉で命令されない限り、鬼はもっと自由に動ける可能性があるのではないか、と思った。

多聞が一度戻り、またすぐ買春ツアーに行くことが決まった時、おれは躊躇いを振り捨てた。ツアー中に村祭りの為の寄り合いもある。チャンスはそこしかない。おれは逃亡を実行する決意をした。

村を出る一週間前に、依子が帰ってきた。病院で別れてから、四週間が経過しようとしていた。どこで何をしていたのか一切言わなかったが、機嫌は悪くなさそうだった。元気になった羅威を見ても、喜びも嘆きもしなかった。

仮面のような顔。そういえば、付き合っている頃からあまり表情のない顔だった。表情が現れるのは、家族以外の人間に対する時だけだ。羅威の病状を語る時だけ、病院で看護師や医師と話す時だけ、豊かになる。

おれは依子に離婚を切り出した。子供の親権も、おれが取るつもりだった。「理由はわかるな?」と訊くと、依子は静かにうなずいた。ただ、おれが村を出る話をすると、剣呑な顔でおれを見た。「比丘尼を連れていくのね」と依子は言った。

「私にはわかっていたの。あなたの心は私にないって」

続けて告げられた依子の気持ちを、おれは衝撃の思いで受け止めた。おれはしばらくの間、何も言えなかった。

祥那を愛していることは確かだ。でも、おれは同じくらい家族を愛していた。大切にしていこうと思っていた。その為に毎日頑張ってきたつもりだった。

依子を守りきれなかったのはおれの罪かもしれない。だからと言って、それを反省してもう一度やり直すことは不可能だった。

おれは正直な気持ちを依子に告げた。依子はただ黙って、離婚届にサインした。緑の枠線の薄っぺらい紙一枚で、おれと依子の短く──そして長い結婚生活が終わった。

この時は予想もつかなかった。村をそっと出ると言ったおれに協力し、誰にも話さずにいてくれた依子が、羅威を奪うために手錠まで用意するなどとは……。

今思うと、最初から依子は羅威を手放す気などなかったと分かる。大騒ぎして実家に帰され、知らぬ間におれ達に逃げられたら、羅威を失ってしまうと分かっていたのだろう。だから協力するフリをして騒ぎ立てず、最後の最後で羅威を手元に残すことに成功したのだ。

可畏。これがおれとお母さんが別れた理由だ。そしてあの伝説に支配された、恵まれていながら呪われている刀利村から逃げ出してきた理由でもある。

おれは自分がしたことが正しいとは思わない。どこかに鬼神なり、天部なりなんなりが、おれの行いを見て間違っていると判断したら、おれは躊躇うことなく罰を受ける用意がある。

お母さんと別れたことも、祥那を村から連れ出したことも、おれには一切後悔がない。

──でも、ただ一つ詫びなければならないとしたら、兄弟を引き離してしまったことだ。お前に弟がいたら、この先もっと心強かっただろうと思う。

祥那が年を取らない限り、ここにずっと住むことは難しい。お前も何度も転校しなくてはならないだろう。そんな時兄弟がいれば支え合うことが出来たのに。本当に申し訳ない。

いつか羅威に会うことが出来たら、どうか仲良くしてほしい。あの子が心配でたまらない。羅威、元気でいてくれ。

可畏、羅威、お父さんを……許してくれ。】



可畏の車は、すでにサービスエリアの駐車場に止まっていた。志門が日付の区切りの最後の一行を読み終わった時、未祥はすすり泣いていた。聡おじさんの心の痛みが、じわじわと胸に広がっていく。

おじさんは一度も未祥に羅威のことを話したことはなかった。それは羅威が言うようにどうでもいい存在≠セったからじゃない。口にする事が出来ないほど心に重いものだったのだ。

聡おじさんはきっと、羅威を迎えに行きたかったろう。でも比丘尼を庇うために、それは出来ないことだった。村に恵みをもたらす比丘尼を連れ出してしまったことで、村人からの怒りと追跡を恐れていた。

どれほど羅威と会いたいと思っても、会うことは叶わなかった。それを羅威は捨てられた≠ニ思っている。その事実を知ったら、聡おじさんは死んでも死にきれないだろうと思う。

未祥が手で涙を拭うと、裕生がティッシュを渡してくれた。未祥はお礼を言って濡れた顔を拭った。裕生が未祥の肩を抱く。

志門はそっとノートを閉じると、お茶を飲んで咽喉を潤した。