第六十二話

おれはベッド横の棚に置かれた依子のバッグを取り、中を調べた。中には羅威に処方された薬と、依子の名前の向精神薬が入っていた。他にも薬のシートがいくつか見えた。

これを手当たり次第に、羅威に飲ませたのか? とおれは訊いた。依子は無言だった。背筋をピンと伸ばし、口元を引き結び、おれとは目を合わせようとしない。おれは依子の肩をつかんで、揺さぶった。

それでも依子は目を逸らし、何も語ろうとしなかった。キュッと閉じられた唇は少し震えていた。その表情は、自分が行った正しい行いを批判され、屈辱を感じている人間のものにしか見えなかった。

妻を……女性を殴りつけたいという衝動にかられたのは、生まれて初めてだった。おれは何とか怒りを抑えつけ、一度家に帰った。旅行鞄を探し出し、依子の服や化粧品を詰めた。

銀行である程度まとまった金を下ろし、病院へ行った。依子は羅威の夕食の介助をしているところだった。羅威は母親が口に滑り込ませるゆるいお粥を、機械的に食べていた。依子はうっとりとそんな羅威を見つめていた。

羅威はおれが来たのに気が付くと「おとうさん!」と言ってニッコリ笑った。

「おとうさん、ぼく、点滴がとれたんだよ。ご飯食べていいって先生が言ったよ。でもおかゆ、きらい。フライドチキンが食べたいな」

無邪気に羅威から話かけられ、おれはもう少しで泣き出しそうになった。でもグッとこらえて返事をした。

「いい子にしてれば、すぐに良くなるよ。羅威、実はね、お母さんが急にお出かけする事になったんだ。遠い場所に住むおばさんが病気になって倒れたんだよ。

おばさんは、すごくお母さんに会いたいって言うんだ。羅威も病気だからそのおばさんが苦しいの分かるだろう? だから少しだけ、お母さんを貸してあげてくれないかな?」

依子は驚いておれをみた。羅威も最初びっくりした顔でおれを見返したが、すぐに心配そうに言った。

「ぼく、病気が苦しいのよく分かるよ。おばさん可哀想だね。いいよ、お母さん貸してあげる。お母さんと会えば、おばさん元気になるよね」

おれは羅威の頭を撫でてから、依子を廊下へ誘った。依子は険を含んだ目でおれを睨んだが、おれは負けられないと思った。依子の怯えた顔を見て、おれはその時、自分がまさしく鬼の形相をしていたのだと分かった。

「しばらくどこかで静養してきれくれ。お前には、心を落ち着かせる時間が必要なんだ」

おれはそう言って、旅行鞄と金を渡した。依子は最初じっとそれを見ていたが、突然おれの手から荷物を奪い取ると、そのまま振り向きもせず廊下を歩いて行った。

自分の息子に──病気の羅威になんの挨拶もしないで、去ったのだ。

何かが欠落している。依子の中には、人間が持つべき大切な何かが足りない。おれはその時ほどそれを痛感したことはなかった。】



<八月二十一日>

【書くべきことが山ほどある。可畏がいつかこのノートを開いた時、過去にあった出来事をなるべく分かり易く伝えるつもりで書こうと思っていたが、なかなか骨の折れることだ。でも続けよう。

依子から離した羅威は見る見るうちに元気になった。病院も三日後には退院できることになり、おれも仕事をそれほど休まなくて済んだ。

依子が家にいないことを村のみんなが詮索して来たが、羅威の看病疲れで身体の調子が悪いので、日光の方に湯治に行ったと説明したら、一応納得してもらえた。実際おれの祖母の時代は、そうして湯治に行く人もいたので、さほど不審にも思われずに済んだのだろう。

退院後すぐに羅威は食欲が旺盛になり、年相応に暴れまわるようになった。幼稚園にも復帰でき、可畏と一緒に元気に通い始めた。母親がたっぷり手を掛けてしまった羅威は、自由奔放に動き回った。

可畏は羅威が散らかした帽子やカバンなどを拾って回っていた。幼稚園でも、先生と一緒に羅威の世話をしていると可畏は言った。忍耐強い可畏は特に不満も延べなかったが、苦労を掛けてしまったと思う。

それでも羅威が元気にはしゃぐ姿は、おれにとって至福の喜びだった。依子からは連絡もなく、もしかして彼女はもう戻らないつもりかもしれない、とおれは思った。

ここにこの事を書き記すのはためらったが、正直になろう。おれと祥那の関係は続いていた。多聞はその頃国外に買春に出ることにハマっていて、家にいないことが多かった。祥那とは時間の許す限り、抱き合い、色々な事を話し合った。

おれは思春期の少年のように、祥那に夢中になった。祥那はおれの腕の中で外の世界が見たいと言った。うそものの空≠ニほんものの空≠見分けたいのだと。おれがそれは何か? と訊くと、『智恵子抄』で読んだと言う。

「高村光太郎の『智恵子抄』にほんとの空≠ェ見たいって出てくるの。わたし、空に嘘やほんとがあるのか、ずっと気になっているの」と。

小首を傾げて、夢見るような顔で言う祥那は、悲しげで透き通るように美しかった。一度も陽にさらされたことのない白い肌。白く滑らかな肌は女性の理想でもあろうが、祥那の白さは長い哀しみの歴史を秘めている気がする。

おれは彼女を、ここから逃がしたかった。この異常な部屋から外に連れ出し、たくさんの景色を見せてやりたかった。そう思うと同時に、自分もこの村とは違う場所に行きたいと願っていることに気づいた。祥那と、可畏と羅威を連れて四人で暮らせたら……。

不可能だと思う内なる声を振り切って、おれは村を逃げ出す方法を考え始めた。多聞に逆らうことは出来るのか、十六のままの祥那が普通の生活が出来るのか、村の人々はどう思うのか、そんなことは考えなかった。

その時は、「四人で逃げること」しかおれの頭の中にはなかった。







高村光太郎著 智恵子抄 「あどけない話」 より抜粋