第五十九話

「MSBP……」

志門が一度言葉を切った時、可畏が低くつぶやいた。四人は運転席の可畏に目をやった。可畏は片手を顎に当てて考え込む顔をしていたが、「いや……、何でもない。続けてくれ」と言った。志門は続きの日を確認し、次を読む。



<八月九日>

【昨日はたくさんの文字を書いて疲れた。でもここまで書いたら全ての事を書き上げてしまいたい。今日中には無理だろうが、なるべく進めておこう。

現多聞の当主義男(よしお)は、今までの多聞の歴史の中でも最悪の部類に入る人でなしだ。先代の比丘尼を犯し、生まれ変わった祥那が五歳になった年、義男はすでに祥那を凌辱していた。

羅衆と夜衆の筆頭が一週間交代で多聞家の護衛に入っていたが、その当時、羅衆の当主だったおれの親父は、護衛の度苦々しい顔で出かけていった。

親父が死んでおれが護衛を引き継いだ後、自分が祥那に深い愛情を持ってしまったことに気づき、おれは依子との結婚に逃げた。そのおれの浅はかな行いのせいで、依子も、大切な羅威も傷つけることになったのだ。

祥那はおれが結婚してからも、おれのことを慕ってくれた。子供が生まれた時も、とても喜んで「わたしも会いたいわ」と言った。

羅威の入退院のせいで、おれの結婚生活は穏やかなものではなかった。依子はおれや可畏のことには興味がなかった。夫婦生活もずっとなかった。おれにとって、祥那はやすらぎだった。可畏が元気にしていることと、祥那に会えることだけが、おれの希望の光だった。

あの日──依子が羅威の点滴に何か入れているのを見てしまった日、偶然なのか運命なのか、多聞は留守にしていていなかった。祥那はおれが会いに行くと、いつもどおりにこやかに迎えてくれた。でもおれは笑い返せなかった。自分でも分からないうちに、祥那の前で泣き出していた。気が付いた時には、祥那の膝にすがって泣き崩れている自分がいた。祥那はずっと、おれの髪を撫でてくれた。

おれは激情が通り過ぎ泣き止んだ後、祥那の膝から離れて、自分の無礼を謝った。祥那はおれをしばらく静かに見つめていたが、その白い、白魚のように柔らかな手をおれの頬に当てた。

おれが驚いて顔を上げると、祥那は唇を合わせてきた。そっとおれの唇に自分の口を押し当て、すぐに離すとまた頬を撫でた。慰めてくれているのが分かり、痛いほど胸が熱くなった。

その後のことは、ここに書き記すのはよそう。ただおれはあの時、依子に不貞を働いた。もちろん、祥那と結ばれることは出来ない。それをしたら祥那は赤子にもどってしまうから。でも完全な結びつき以外の、男が愛する女にするすべての事を、その時おれは祥那にしてしまった。

祥那はおれの愛情に、同じくらい熱く応えてくれた。あんなに狂おしく、充実した時間を始めて味わった。この日から、おれは村から逃げることを漠然と考えていたのかもしれない。その時は自覚がなかったが、祥那も、子供たちも、この狂った場所から連れ出したいと願ったことは覚えている。

祥那に慰められ、おれは依子のことを冷静に考えられるようになった。依子は病気だ、と思った。深い心の病気なのだ。依子にとって羅威は大切な息子というより、自分が他人から関心を得るための道具≠ネのではないか──。

依子は羅威という獲物≠手に入れ、羅威を病気に仕立て上げた。依子の狙いは「息子を看病するえらい母親」という称号を手に入れることだった。それだけを生きがいにしているように見える。羅威は病気ではなかった。母親から病気にされていた≠フだ。】



「代理ミュンヒハウゼン症候群」

「ああん?」

可畏が発した聞きなれない言葉に、光が疑問の声を上げた。志門は続けて読むのをやめ、可畏を見た。未祥と裕生も難しい顔で可畏の説明を待った。

「多分だけど、代理ミュンヒハウゼン症候群だと思う。精神疾患の一種だけどプロでも診断が難しいものだから、素人の俺が言いきって良いのもかどうか迷うけどね。でも症状的にはかなり当てはまるよ」

光は机に大量の算数ドリルを乗せられた小学生のような顔で可畏を見た。

「だからその……代理ミュナントカつーのはなんなんだ?」

「俺も詳しくは知らないが、数年前ニュースで取り上げられたので調べたことがあるんだ。代理ミュンヒハウゼン症候群は、ミュンヒハウゼン症候群の一形態だと言われている。

ミュンヒハウゼン症候群は病気を自作自演する精神疾患だ。健康体である自分の体を、重大な病気を患っていると周りの人に嘘をつくんだ。

体温計をわざと温めて高熱が出ているように見せかけたり、尿検査の時に自分の尿に砂糖を混ぜて糖尿病のフリをしたりする。そして寝込んだり、入院したりて、みんなから同情されることに最高の喜びと感じてしまうんだ。

これが代理ミュンヒハウゼン症候群になると、自分以外の人間を病気に仕立て上げて、看病することでみんなから褒められたいと切望する。自分ではなく、代理の人間を病気にするから、そんな病名がついたんだ」

「あたしもニュースで見たの、覚えてます」と裕生が言った。

「確か母親が娘の入院中に、腐ったスポーツドリンクを娘の点滴に入れたとか、聞いた覚えがあります。そんなことする人がいるんだ、と思ったんです。その母親は四人の子供がいて、その内の二人は小さい頃亡くなっていたと言ってました」