第五十八話

<七月十四日>

【日差しは強く、もう完全に夏の空だ。この辺りの空は刀利とは違う色に見える。何より空気の匂いが違う。刀利の風を吸い込みたいと思うのは、郷愁だろうか。おれはあの土地が好きではなかった。それなのに懐かしく思い出す。

あの土地は不健全だ。比丘尼の犠牲により成り立った、自主性のない村。誰でもいい、比丘尼の恵みではなく、自分たちの力で村を活性化出来る方法を探して欲しい。村を捨てたのに、そんなことを思うのは自分勝手だ。なんておれは情けない人間なのだろう。

覚夜の親父さんは怒っているだろうな。いつか追手がここにたどり着くかもしれない。用心しなければ。

刀利という特殊な土地で起こった、悲しい出来事を書き進めなければならない。羅威、あの不憫な子が可哀想でたまらない。おれは羅威にどんな償いができるだろう。

産まれてから三ヶ月後、やっと病院から羅威は退院できた。でもなぜかその後依子は、ふさぎ込むようになった。退院後数ヶ月で羅威の体重は著しく増加し、標準より小さいものの元気にしていた。可畏はまるまる太り、手足をバタバタさせて空中にいる見えない友達≠ニ毎日じゃれあっていた。寝返りももうすぐ出来そうだ。

依子は育児に興味がなくなったのかと思うほど、子供の世話をやりたがらなかった。あれほど羅威の為に病院に通い詰めたのに、退院したと同時にやる気が見えなくなった。疲れてしまったのかと思って、おれとおれの母はなるべく双子の面倒を自分たちでみることにした。

ある日羅威が熱を出した。依子は近所の医者でなくわざわざ出産した病院まで診察を受けに行った。おれは仕事で付き添えなかったが、依子から電話があり、羅威が入院すると聞いた。おれは大慌てで病院に行った。

医師は、羅威の熱は突発性発疹で、ほとんどの子が罹る通過儀礼のようなものだから心配ない、と言った。入院は未熟児で生まれた羅威を心配する母親のたっての希望なので受け入れたと言われた。一泊で追い出されるように退院したが、すぐにまた羅威の調子が悪くなった。下痢や軽い発熱があるという。

依子は同じ病院に羅威を連れて行った。医者は原因が分からないが、心臓の関係もあるかもしれないといった。数日入院し、その間依子は必死で看病した。別人になったかと思うほど、献身的な態度だった。羅威の病状が良くなり、退院した。

近所の人たちが羅威の退院を祝って家に来てくれた。依子は羅威の病状が酷さを語り、みんなは依子を励ました。しばらくして、また羅威の調子が悪くなった。嘔吐が止まらない状態だった。

羅威は入院したが、なかなか元気にならなかった。少しでも症状が軽くなると、次の日には悪くなるのを繰り返す。依子は寝ずに看病した。見るからに、子供思いの優しい母親だった。】



<八月八日>

【暑い日が続く。可畏は幼稚園が夏休みなので、毎日祥那と遊んでいる。祥那も可畏がいた方が日中一人でいないで済むせいか楽しそうだ。水遊びの出来る公園を見つけて毎日のように通っている。

祥那は自分と可畏に結界を張り、もし追手が近くに来ても分からないようにしている。おれも最近は心配なく仕事に行けるようになった。祥那は公園で中山さんの奥さんに会っても、無視されると言っていた。

中山さんの息子は可畏と同じ年なのに、一緒に遊ばせてもらえないらしい。奥さんは友人を近くに呼び寄せて、祥那を指して「あの女はバカで淫乱だ」と言ったという。

まさか、そんな根拠のない事を立派な大人が言うとも思えなかったが、祥那が嘘をつくわけがない。祥那は公園に中山さんが見えると、違う場所に移動するそうだ。このまま何事もなければいいのだが……。

一階から可畏の声が聞こえる。外から戻ってきたようだ。羅威もあんな風に元気にしているといいのだが。

羅威は赤ん坊の頃から、何度も入退院を繰り返してきた。未熟児だから体が弱いとおれは思いこもうとしていた。実際、周りの人間はずっとそう信じてきた。今でも信じているだろう。

依子は羅威にかまけ切りだった。羅威が入院すると、必死で看病する。五歳になるまでに羅威はどれくらい病院に行ったのか……。依子のけな気な看病はみんなの同情と称賛を買った。依子は生き生きしていた。それが、それこそがどうにもならない病気だと、おれは刀利を出る数ヶ月前まで知ろうとしなかった。

五歳になったばかりの羅威が痙攣を起こして入院し、良くなったので退院して、その後すぐまた同じように痙攣を起こした。おれは羅威の面倒を見る依子の様子を、気を付けて観察するようにした。

そっと台所を覗くと、羅威の食事に依子が白い粉を混ぜているのを見た。おれは即座に、それはなんだ? と聞いた。依子は最初言いたくなさそうにしていたが、羅威の体を強くするサプリメントを入れていると答えた。

食事の後、羅威の下痢が酷くなった。依子は大急ぎで羅威を病院へ連れて行った。おれは寝室の押し入れを依子がいない間に見てみることにした。押し入れには段ボール箱がいくつか入っていた。それだけ見ると、ありがちな押し入れの中身だ。

でも段ボールの中が問題だった。そこには蓋のついたビンがたくさん入っていて、その中の液体はドロドロした得体のしれないものだった。おれは蓋を開けてみた。途端にひどい臭いが鼻につく。中の液体が元はなんだったのか分からないが、それは腐っていた。

他の箱には大量の薬が詰め込まれていた。下剤や睡眠薬、どこで処方されたのか、てんかんの薬もあった。覚羅依子≠フ名前のものと覚羅羅威≠フ名前のものが袋に入っている。依子は多分、この薬を羅威に飲ませていたのだ。

おれは大急ぎで腐った液体を捨て、たくさんの薬をゴミ袋に入れた。後で燃やすか、少しずつゴミに出すつもりだった。一度に出すと、見た人が確実に驚くほどの数があったからだ。

おれは可畏を連れて病院へ向かった。可畏は車の中で寝てしまったので、病院についてから背負って受付に行った。案の定、羅威は入院することが決まっていた。父親だと受付に告げ、病室の場所を聞いた。

音を立てないように病室を覗くと、依子が羅威の点滴にペットボトルから何かを入れているのがみえた。濁った液体。おれは無言で病室へ入った。依子はおれに気付いたが、何も言わなかった。ただ黙って、無表情でおれをみていた。しばらくお互い見つめあった。

そのうち羅威が呻き始めた。羅威は目を開けておれを見た。「おとうさん、おなかいたい」と羅威が泣きながら言った。依子はブザーを押して看護師を呼んだ。羅威の容態が落ち着くまでしばらく掛かった。医者に何が悪いのか聞いても、よく分からないと難しい顔で言うだけだった。

依子は元気な可畏が病院にいるのは良くないから、あなたは帰って、と言った。普段は可畏の心配などしないのに、きっぱりと言い渡された。おれは村へ帰った。そして可畏を母に預け、祥那の護衛をしに多聞家に向かった。】