第五十七話

<六月三十日>

【今日、町内の中山さんとすれ違った時挨拶したのに、睨みつけられ無視された。気のせいかと思おうとしたが、あまりにもあからさまだったので気になる。

一週間前に中山さんの奥さんとゴミ捨て場で会った時、次の町内会の時は旅行に行くので、会計報告を代わりにしてほしいと頼まれた。中山さんが会計に当たっていることは知っていたが、なぜおれに代わりを頼むのか不明だった。家が隣という訳でもないのに……。

町内会費と資料を渡しに行きたいので、携帯の番号とメアドを教えてほしいと言われた。おれは、教えなかった。どう考えても不自然だと思ったからだ。奥さんには、そういうことは町内会長に相談してくださいと伝えた。会計報告の代理なら、会長がする方が自然だろう。

奥さんは急に不機嫌になり、その場を去った。あのことが原因で旦那さんも怒ってしまったのだろうか……。なんにしても、人間同士の付き合いは難しい。】



志門は一度息をつくと、読むのを中断した。買い込んできた食料品の中から裕生が緑茶のペットボトルを取りだし、志門に渡した。志門は「サンキュ」とお礼を言ってからそれを飲んだ。

「中山という家族は俺が小二の時引っ越したんだ。子供が同じクラスだったから覚えてる。男の子だったけど、一緒に遊んだ覚えはないな。引っ越しの理由は両親の離婚だった。

学校ではそこまで言わないけど、近所の噂で聞いた話を親父が教えてくれたんだ。親父はその家族が越してくれてホッとしたみたいだった。だから余計記憶にあるんだ」

志門が朗読を休んでいる間、可畏が誰にともなく話した。未祥は裕生と目を合わせた。お互い困惑した顔をしていた。「うーん」とうなった後、裕生が話し出す。

「あたしはその中山の奥さんが、可畏さんのお父さんに好きだってアピールしているように感じました」

「ええっ、だって旦那さんも子供もいるでしょ?」

未祥が驚きの声を上げる。

「そうだけど、不倫なんてどこにでもある話だよ? きっと世の中には、人を好きになるのに制限はないって思ってるオメデタイ人もいるんだよ。

可畏さんのお父さんだもん、相当イイ男だったんじゃない? 好きだからメアドを教えてもらって個人的に連絡を取りたい。お父さんは中山の奥さんからそういうアピールをされてるような感じがする」

ふむ、と頷いて光が口を挟んだ。

「確かにそんな印象を受けるな。まぁ、人を好きになるのは本人の自由だが、それを立場もわきまえず、相手に強引に押し付けるのはお目出度いかパッパラパーのどっちかだろう。これが相手も同じタイプだと不倫が成立するんだな、きっと」

「──大人ってキタナイな」

ぼそりと志門が言った。一瞬、車内がシン、とする。未祥はノートに目を落としたままつぶやいた志門をそっと見た。

「オレは将来、一番好きになったヒトと結婚して、その人のことだけずっと好きでいたいです。他の人にフラフラ気持ちが動くなら、結婚なんかしなきゃいいと思う」

「確かにその通りだ」

光が前方を見たまま、腕を組んで言った。志門は意外そうな顔で助手席を見る。

「本気で言ってますか? オレは光さんに青臭い≠チて笑われると思った」

ハハッ、と声を立てて笑い、光は後部座席の志門を振り返る。その目には今まで見たことのないほどの暖かさが宿っていた。

「青臭いさ。でもそれでいい。人間が知的動物だと自分を誇るなら、それくらい守り通せるはずだからな。お前はそのまま真っ直ぐ進めるかもしれんし、大人になって今の自分を青い≠ニ思い直す可能性もある。

だけど今はまだ十六だ。そういう気持ちを大切にしろ。それを心の片隅に置きながら、前に歩いていけ。そうすれば志門は将来、ものすごくイイ男になるぞ」

志門は呆けた顔で光を見た。それから少し頬を赤らめて頷いた後、光に微笑み返した。

「志門くんは今でも、すっごくイイ男だよ」

未祥が無邪気な満面の笑みで志門に向かって言った。可畏はそれを聞いて、心臓を鋭い刃物で貫かれたようなイタイ気分を味わった。自分が送ってきた今までの女性遍歴は、志門の理想から程遠いものだからだ。

気持ちの上では、一度も未祥を裏切ったつもりはない。でも未祥に聞こえる位置で女を抱いてきた。可畏は思わずハンドル操作を誤りそうになるほど、居たたまれない気持ちになった。「未祥、ごめん……」と無意識につぶやく。

「は?」と未祥が困惑して聞き返す。光が怪訝な顔で可畏を見た。いつもは凛として前を見ている可畏の表情が、情けなさそうにしょげているのを見て、光は可畏の謝罪の答えにたどり着いた。ブッ、と吹き出すと、わっはっは、と大声で笑った。高校生たちは理解できずにポカンとしている。

「いや、可畏もまだまだ青いな」

光は笑いすぎて出た涙を拭いながら可畏の肩をバシッと叩いた。それから訳が分からず目が点になっている後部座席の三人に向かって「すまん、気にするな。さぁ青少年、続きを頼むぞ」と言った。

志門は女子二人と目を合わせたが、未祥も裕生も首をかしげて見返しただけだったので、あえて突っ込むのはやめておいた。そしてノートを持ち直すと、次の日付の文を読み始めた。