第五十六話

<五月二十三日>

【祥那は最近塞ぎがちだ。またゴミの分別の事で杉下さんから何か言われたらしい。祥那はずっと閉じこめられて生きてきたから、一般社会のルールを知らない。

一つ部屋にいるだけだったから長距離を歩くのも苦手だし、学校にもいったことがないので、人とのやり取りがヘタクソだ。何でも深刻に受け止めてしまう。適当に「はい」と返事して、同じ事を繰り返さないようにすればいいのに……。

「もっと気楽にしたらいいよ、おれも手伝うから」と何度言っても、「わたしの頭が足りないから……」とつぶやいて自分を責めている。今度美味しいものでも食べに連れて行ってあげよう。祥那の笑う顔が見たい。

このノートには、なるべくおれが感じたままの思いと、有りのままの事実を書くつもりだ。成人した可畏がこの日記を読むとき、辛い思いをする可能性が大きいだろう。特に自分の母親に関することを知るのは、子供にとって残酷でもある。

それでも書き残そう。人間いつどうなるか分からない。おれが突然死んでも、過去に起こった出来事が分かる資料があった方がいいと判断する。可畏、どうか心して読んでほしい。そして……言い訳にしかならないが、父さんを許してほしい。】



<五月二十六日>

【文字を書くという行為は結構疲れるものだと、日記を書くようになって分かった。続けて書こうと思っているのに、文を考えているうちに眠気が襲ってくる。おれも三十を超えて多少体力が落ちたのか。

祥那は少し元気を取り戻した。刀利ではずっと着物を着て、お手伝いさんの作る和食中心の食事を摂ってきた祥那だが、本来彼女はスパゲティやピザなどのイタリア料理が好きらしい。可畏と一緒に口の周りにソースをつけてピザにかぶりつく彼女は、とても可愛い。

杉下さんに、祥那はずっと病気がちで家から出られず、世間知らずだという話をしたら納得してくれた。あっという間に覚羅さんの奥さんは可哀想な人≠ニいう噂を近所に流してくれた。ある意味怖いが、味方につけると色々世話を焼いてくれるので助かるかもしれない。でも気を付けて付き合わなければ。

この前の町内会で、同じ班の中山という奥さんに突然携帯のメールアドレスを書いた紙を渡された。みんなに見えないようにこっそりと……。意味が分からないので放置してあるが、どういうことなのだろう。】



<六月二日>

【いよいよ梅雨に入る。この辺りは刀利村より蒸し暑い。洗濯物は乾燥機に頼らなければ乾かすのが大変だ。依子は洗濯物を自然乾燥させるのが上手だった。結婚した当初は、色々工夫して家事をしていた。入籍した翌年に双子が生まれ、依子は仕事を辞めて育児をしてくれた。

依子は妊娠初期に切迫流産しそうになったことがある。安静を第一にされた依子の為に、おれの母を始め村の女たちが色々手伝いに来てくれた。「元気な赤ちゃんを産んでね」とみんなが励ましてくれた。

普段控え目な依子は、手伝いを恐縮するかと思いきや、嬉しそうに受け入れていた。みんなの協力に感謝しているのだろう、とあの時は思った。今思うと、それは間違いだったのかもしれない。あの時から病気の兆候が出ていたのだ。そうとしか思えない。おれは専門家ではないから真実は分からないが……。

切迫早産を乗り越えた後の妊娠は順調だった。双子だから臨月に入ると入院しなければならないほど腹が大きくなった。お腹の中で片方の子が大きく、もう一人が小さいというのは産科の医師から聞かされていた。

出産は自然分娩だった。最初に生まれた可畏は二千六百グラム。後から生まれた羅威は千五百グラムに満たなかった。羅威はすぐに保育器に入れられた。医師の診察を受けた羅威は心臓に穴が空いていると言われた。手術は本人が耐えられる年齢になるまで受けられないそうだ。

おれはそれを聞いて自分の心臓が止まりそうになった。依子は割と冷静に医者の話を聞いていた。でも病院にお見舞いに来た友人や親戚には涙ながらに羅威の病状を話す。訪れた人は一様に羅威を心配し、依子を励ました。

依子は傍目には必死で羅威を心配しているように見えた。可畏の世話はおれの母に任せきりにし、羅威の事ばかりにかまけていた。可畏は人工乳なのに、羅威には自分の母乳を搾乳したものをあげていた。

羅威は口で母乳を吸い上げるだけの力がなかったから、鼻から摂取させていた。可畏は母乳を吸う力があるにも関わらず、お乳をあげようとしなかった。

母体は健康だった為、依子は羅威より先に退院した。NICU(新生児特定集中治療室)のある病院はもちろん刀利にはない。退院すると羅威のいる病院まで片道一時間かけて通わなくてはならない。

病院には付き添う家族が安く滞在出来る宿泊所もついていたが、依子はそこには入らず刀利から病院に通った。病院に行く時、近所の人から「大変だね」「いつも頑張っていて偉いわね」と声を掛けられる。依子はその度、羅威がいかに小さくて病気が酷いかを触れて回った。

依子にとって羅威こそがみんなの同情を買う手段≠セったのだ。おれはどこかおかしいと思っていて、それを止められなかった。愚かな父。

羅威が退院する頃には、可畏の面倒はおれの母の担当になっていた。】