第五十五話

<一月十三日>

【羅威の容体は安定している。そろそろ実行に移す日を決めなければ。多聞は十七日からツアーに出かける。多聞の命令は「祥那(さちな)を見張れ」という事だけだ。今までの実験から、多聞の命令に効力があるのは、直接言われたことだけだと分かった。

あいつは「村から出るな」と言ったわけではない。なぜこんな単純なことに今まで気付かなかったのだろう。あの色情狂が出かけた日がチャンスだ。】



志門は朗読を止めた。赤信号で停車させた可畏は光と目を合わせる。

「十七年前だな。可畏の親父さんが刀利村を出る前だ」

光の言葉に、可畏が頷いた。そして志門の方を向くと「日記は毎日書かれているかい?」と訊いた。

「いえ。えーと、この次は……三月二日です。他のページを見ても日付は飛び飛びです。一日分の文章も、長かったり短かったりバラバラです」

「そうか。じゃあ悪いが続けて読んでいってくれ」

可畏は改めて志門に頼み、アクセルを踏んだ。志門はノートに目を落とすと、息を吸い込み次の文を読んだ。



<三月二日>

【おれはバカだ。後悔してもしきれない。なんで羅威を連れてこられなかったのか……。まさか依子(よりこ)が、自分とあの子を手錠でつなげているとは思わなかった。離婚届に判を押してくれて、子供たちもおれに任せてくれると約束したのに。依子は病気だ。羅威はその病気の犠牲者になっている。】



「──病気?」

思わず、という感じで可畏が声を上げた。志門は読むのを中断した。可畏は戸惑っていた。病気とはなんだろう。体が弱かったのは弟のはずだ。母は弟の世話で疲れていたかもしれないが、母自身が病気とは知らなかった。

母は羅威の面倒を見る合間に、よく外に出ては近所の奥さんたちと話をしていた。女同士のお喋りが終わると、決まって母は機嫌が良かった。その母が何かの病気を患っているようには見えなかったが……。

可畏が考え込んでいるので、志門は黙っていた。可畏はここで考えていても仕方がないと気付き、志門に先を促した。志門は何も口を挟まず、続きを読み始める。



【手錠の鎖を切ってでも羅威を連れて来れば良かった。でも祥那を逃がすにはあの日しかなかった。春祭りの予定を決めるのに村で会合があるから、みんなが出払っているうちに抜け出すのが一番だと思った。

おれは子供が小さいのと羅威の躰が弱いのを理由に、会合に出なくても文句は言われない。可畏と羅威を連れて多聞家に行き、祥那と共に村を静かに出ていく。最初はそう決めていた。依子も反対はしなかった。今思うと、羅威を手放す気などなかったのだろう。おれの意見を飲んだふりをして、手錠まで用意したんだ。

依子は鬱症状を訴えた病院で処方された睡眠薬を、羅威に飲ませてから自分も飲んだらしい。二人はぐっすり寝ていた。そして手錠でつながっていた。手錠を切る道具がなく、羅威を依子から引き離せなかった。恐ろしい。それほどまでに他人から同情を買いたいのか。】



「この日はここで終わってます」
それだけ言って、志門はページをめくった。



<三月十八日>

【ここに来て二ヶ月たった。祥那は毎日楽しそうだ。周りにあるものが珍しくて仕方がないように見える。ジャンボ宝くじの抽選が行われ、おれの心配をよそにちゃんと一等が当たっていた。祥那の力はここでも有効らしい。早速、家を買った。

中古のログハウスだが、築一年で綺麗だったから決めた。引っ越しは来週だ。可畏の通うことになる小学校も近いし、買い物にも不便はない。おれの職場には歩いて三十分程度。運動になるし文句はない。良かった。

仕事は重機オペレーターとして雇ってもらえた。刀利で恵み≠フ大岩を崩すのに重機を使ったので、資格と経験もあるし何とか役に立ちそうだ。可畏は幼稚園に慣れてきた。最初はかなり緊張していたようだが……。ここに羅威がいてくれれば、と思う。羅威がどうしているか気になって仕方がない。】



<三月二十五日>

【引っ越しが済んだ。近所の人たちにも挨拶が終わってホッとした。祥那は若奥さんということになった。ずいぶん若い、と杉下さんという人が興味しんしんだった。祥那が「普通の生活」に慣れるのも大変かもしれない。

このノートは日記と記録を兼ねよう。将来可畏が速疾鬼としての能力を受け継いだ時、読めるように結界を張っておく。口でも伝えるつもりだが、刀利の伝説や、おれが祥那を連れて刀利を出た理由を書き留めておこう。

いつかこの呪縛から解放された時(そんな時が来るのか?)、可畏が羅威に会って、お父さんとお母さんの間にあったことを教えてくれたらいいと思う。落ち着いていて頭のいい可畏。明るくて甘えっこの羅威。どちらもおれには宝物だ。】



<五月三日>

【ゴールデンウィークに入って、やっとゆっくり日記が書ける。可畏は幼稚園の友達と近くの公園で遊べるようになった。年長組になってからますますしっかりしてきた。元気にしている可畏を見ると羅威を思い出す。双子なのに離れ離れは可哀想だ。おれが悪い。もっとちゃんと依子と向き合っていれば……。

二十歳で親父が急逝して、おれは羅衆の長兄として祥那の護衛を引き継いだ。護衛と言えば聞こえはいいが、結局はただの見張り役だ。祥那はあの時まだ十一歳だった。毎晩悲鳴を上げていた。

多聞が祥那にどんな事をしていたのか……。直接見ていないが、あの声を聴けば酷いことをしていたと分かる。おれは昼間祥那と過ごすこともあったが、いつも彼女は怠そうだった。また子供なのに、笑うこともあまりない。

おれは祥那に文字や歌を教えてあげた。最初は同情だった。祥那もおれに懐いてくれて、色々なことに興味を示してくれるようになった。青鬼さんに会えるのが楽しみなの、と祥那は言った。赤鬼さんはすごくおじいさんだから、私が話しかけてもよく聞こえないみたいなのよ、と。

五年後祥那は十六を迎え成人≠オた。美しかった。

おれは自分で気付いていなかったが、祥那に夢中だった。年ごとに愛らしさを増す祥那。彼女が望むなら、おれはどんなことでも出来るような気がしていた。どれほど多聞に犯されても、祥那は清らかさを失わなかった。澄んだ目でおれを見る。

「来てくれて嬉しいわ、青鬼さん。ずっと待っていたのよ」

祥那に柔らかくそう言われるたび、体中の血が噴き出しそうになるほど胸が熱くなったのはいつ頃からだろう。九つも下の少女に、おれはまさしくぞっこん≠セったのだ。でも祥那は多聞のものだ。そして村の大切な天女。おれが触れていい相手ではない。

だからおれは結婚した。祥那が十六を迎えたその年に。

依子との結婚話は祥那が十六になる一年程前から持ち上がっていた。依子は一つ年上で、高校卒業後から村役場に勤めている真面目で大人しい印象の女性だった。おれは祥那への想いから逃れる為に、依子との結婚を受け入れた。

依子は役場に通うだけ、そしておれは祥那の相手と鉱石の採掘現場へ通うだけの生活をしていた。お互い異性との出会いがない状態だった。なので村長にお見合いを薦められたのだ。

初めて一緒に食事をした時の依子は、口数が少なく見るからに地味だった。少し神経質なのか、手にずっとハンカチを持ち口元に当てていた。村にはお洒落なレストランなどないので、隣町まで遠征した。帰りの車の中で、依子は突然しゃべり出した。

「私は暗いから楽しくないでしょう。それに聡さんとは不釣り合いよね。さっきお店で近くにいた人が言ってたの。あの二人似合ってないって。聡さん、とっても素敵だから……。本当は中学の頃から憧れていたんです。でも、聡さんは私なんか相手にしてくれないだろうと思って」

堰を切ったように、依子は話していた。おれは黙って話を聞いた。その後も何度か一緒に食事をしたが、依子はずっと印象が変わらなかった。謙虚さを通り越して卑屈にも思えるほど、自分を卑下した。そしておれを褒める。

彼女の控え目な性格は好感が持てた。おれと一緒にいることに慣れても態度は変わらなかった。この人となら普通の結婚生活≠ェ送れると思った。それが依子との結婚を決めた最大の理由だった。】