第五十四話

「なんつーか、パワーのあるオバサンだったな。自分の知らないことが近所で起こるのが許せないタイプだ。今も家から双眼鏡で観察しているかもしれんぞ」

光は冗談交じりに言ったが、可畏はあながち的外れではないかも、と思った。それほどまでに、杉下夫人は自分自身が大事なのだ。そしてそういう人間は悲しいかな、どこにでも存在するのである。

「ま、ああいうオバサンがいないとコミュニティが守られていかないのかもしれんがな。いつも近所をチェックしていち早く危険を察知する。普段はウザいかもしれんが、災害でもあったら大活躍するタイプだぞ」

「そうかなぁ、一人でワーワー騒いで周りを混乱させる典型にも見えるけど」

あくまでも冷静な論客、裕生が光に意見した。光は腕を組んで「むむ」と唸ると「一理あるな」とつぶやいた。

「時間を取らせてすまなかった。これから羅威の家に向かおうと思うんだ。ここからだと三時間は掛かるみたいだけど二人はどうする?」

可畏はもう何度目かになる今後の確認を、志門と裕生に向けて訊いた。二人は一瞬目を合わせると「行きます」と同時に言った。

「そうか。それは有難いが今からだと確実に夕方になる。しかも着いてすぐ帰れるとは限らないよ。それでも構わないかい?」

「オレは大丈夫です。明彦のとこにもう一晩泊まらせてもらうって親に言っときます。オレ達は時々泊まりあいっこするんで、それほど疑われないと思います」

「あたしも大丈夫。友達のとこなんてめったに泊まらないけど、うちの親はそれほどあたしに関心がないんで。今夜も未祥の所に泊まるって伝えます」

志門と裕生は親にまた嘘の電話を掛けた。志門は親友の明彦にも口裏合わせを頼む連絡をした。明彦は「なんだよ、まさか彼女が出来たのか!? 後で教えろっ」とわめいたので、「帰ったらたーっぷり語ってやるよ」と答えておいた。実際、本当の事を話すのは無理なので、どんな作り話を考えよう、と悩みながら志門は電話を切った。

可畏はその間にナビで電話番号から検索をかける。カーナビはきちんと住所を突き止めてくれた。確認すると、刀利村のすぐ近くの別荘地だった。光が昨日教えてくれた、母を転地療養させる為に羅威が引っ越した場所だと思われた。

「なんだ、羅威の奴結構近くに住んでたんだな」

光が助手席に乗り込んでから言った。後ろには電話を終えた志門と裕生の間に未祥が座っている。志門は、今度の運転が可畏だと知って安心した。

「住所は知らなかったのか?」

可畏が訊くと、光が呆れ顔で頷いた。

「どんなに脅しても口を割らないんだ。村の近くに住んでることは分かっていたが、別荘は林の中に点在していて分かりにくいから見つけきれなかった。まぁ、あいつも仕事には来ていたし、無理に探したりはしなかったけどな」

可畏はエンジンをかけながら、人間なんて案外そんなものかもしれないな、と思った。毎日会っている相手でも、必ずしもその人の生活の全てを知っているわけではない。肉親や恋人ですら、隠されたら知ることが出来ない事柄も結構あるものだ。そう思うと、在り来たりな日常の出来事や悩みを話してくれる相手は、自覚しているより貴重な存在と云えるだろう。

可畏はますます未祥が大切に思えた。未祥は生まれた時から可畏のそばにいて、離れないで暮らしてきた。親でもなく、兄妹でもなく、今は大切な、大切な恋人だ。早く羅威に会って戟を手に入れたい。その後一緒に生きていければ、それ以上望むものなど何もない。

可畏の運転で四年ぶりに訪れた生家から車が離れていく。視界から遠ざかる覚羅家を見ながら、未祥は胸が締め付けられるように痛んだ。もうここに戻ることは出来ない。引っ越しで荷物をまとめることはあるかもしれないが、そうすると何もなくなった、ガランとした部屋を見ることになるのだ。思い出をすべて取りのけた部屋を──。

可畏が運転席側から左手を後ろに伸ばした。未祥はその手を両手で握る。他の三人は黙って外を見た。二人の間に流れる哀惜の情を、無粋な言葉で邪魔したくなかった。

聡おじさん、と未祥は心で呼びかけた。

あなたはどんな思いで刀利村を出てきたの? どんな気持ちであたしを育ててくれたの? 先代の比丘尼、祥那があたし≠ノなってしまったことは悲しくなかったの? そしてどんな思いで「幸せになれ」と言ってくれたの……?

聡おじさんに聞きたいことがいっぱいある。でもおじさんには二度と会えない。つらいつらい喪失。でも──答えは日記から見つかるかもしれない。 未祥は可畏の手を一度ギュッと強く握ると、そっと離した。それから志門に目を向ける。

「志門くん、日記の内容を聞かせてほしいの。大変だと思うけど、やってくれる?」

志門が間近にある未祥の瞳を見つめる。相変わらず志門くんの目は真っ直ぐだ、と未祥は思った。八咫烏を祀る神社の神主の血を引く、神使の力を秘めた目。こんな人が近くにいて、友達になれたことは奇跡だ。

きみが好きだと言ってくれ、あたしが他の男を愛していると知った後も全く変わらない態度で接してくれる。そして刀利村近くの遠い場所まで一緒に行ってくれようとする大切な友人。

未祥は感謝の想いを込めて志門を見た。志門のブレることのない真実を見抜く目は、未祥の想いを受け止めた。

「オレで役に立つなら、喜んで力になるよ」

志門の声は急に大人びた響きを持ち、車内に低く広がった。光が後ろを向き、持っていた黒いハードカバーノートを志門に渡す。「頼りにしてるぜ、大将」と光は言った。

志門は光から受け取ったノートを開いた。そこには黒のボールペンでたくさんの文字が綴られている。志門には、このびっしり書かれた文字がみんなに見えないのが不思議だった。

とにかく、自分にしか見えないのだから読んでいくしかない。志門は居住まいを正すと、最初のページの一行目から読み始めた。